
出口のない「迷宮」としての「病院」
「愛の眼鏡は色ガラス」(安部公房)
(「緑色のストッキング・未必の故意」)
新潮文庫
「破壊でけっこう。文句あるかい?」
「思っただけでも、浮き浮きしてくるじゃない。」
「東京じゅうが、燃えちまうんだよ。」
「すべすべした、ルビー色に光る、空いっぱいのはばたき……」
「でも、どこで見物するの?」
「どこにしようか」…。
1 はじめに
本作品は、安部公房の戯曲の中でも特に難解で実験色の強い作品です。従来の劇のように「ストーリーの起承転結」や「登場人物の成長・葛藤」を追おうとすると、どうしても迷子になってしまいます。
2 登場人物
男
入院患者の一人。ゴム人形を妻だと思い込む。
女A
入院患者の一人。カバンの中に自分の卵を入れているという。
女B
入院患者の一人。放火をしているという。
白医者
「医者」となっているが不明。露出狂と思われる。
赤医者
「医者」となっているが不明。色情狂と思われる。
旅支度の男
入院患者の一人。部屋にじっとしていられない。
外交員
消化器のセールスマンらしいが患者の可能性あり。
首吊り男
入院患者の一人。首を吊っても死ねない男。
オレンジ・ヘルメットの学生
全共闘の学生。革命をめざす。
グリーン・ヘルメットの学生
全共闘の学生。革命をめざす。
縞・ヘルメットの学生
全共闘の女子学生。革命をめざす。
看護人
「看護人」となっているが不明。欲求不満らしい。
3 本作品の味わいどころについて
筋書きらしい筋書がない以上、安部公房が本作品で表現しようとした核心は、物語を語ることではないはずです。表題から読み解くとすれば、「人間は誰しも独自の色眼鏡を通してしか世界を見ることができない」という認識の不条理を、舞台上で可視化することにあったのではないかと考えられます。
本作品の味わいどころ①
認識の不条理を象徴する「色眼鏡」
十二人もの人物が登場するのは、それぞれが異なる「色眼鏡」(=観念・偏見・立場)を代表しているからなのでしょう。彼らは固有の性格を持った生身の人間というより、「ある言葉や認識にとらわれた標本」として配置されているかのようです。
なぜなら、登場人物たちは一見熱心に議論しているように見えますが、実は誰一人として他人の言葉を聞いていないのです。各自が自分の「色眼鏡」越しに見える風景を叫び合っているだけなのです。したがって建設的な議論にはなり得ず、いや、かみ合わずに空回りしている以上、「議論」とも呼べず、言葉だけが出ては消えている状態です。筋書きが進まないのは、議論によって相互理解や解決に向かうのではなく、「台詞の空転」そのものを描き出しているからなのです。
「愛」は一見すると美しく人間的なものに思えますが、安部はそれを「最も強力で自己中心的な色眼鏡」と捉えました。「私はあなたを愛している」「私は正義を信じている」という主観的な確信こそが、客観的な現実を見えなくさせてしまう皮肉を描いているとも考えられます。
「色ガラス」を外せば裸眼の「本当の世界」が見えるかというと、安部の思想ではそうではないようです。人間は「眼鏡を付け替える」ことしかできず、透明な素顔や客観的な真実など最初から存在しないという不条理を示しているように思えます。
本作品の味わいどころ②
情念と抑圧を表す「放火と消火器」
本作品の中で執拗に繰り返される「放火」と「消火器」のイメージは、安部の劇的思考において非常に多層的な意味を持つ強力なモチーフといえます。単に物理的な火事と消火活動を描いているのではなく、「情念の暴走」と「それを言葉や制度で制御しようとする衝動」の対比として機能していると捉えることができます。
その「放火」と「消火器」が繰り返される台詞回しは、人間社会の「欲望」と「抑圧」の無限ループを鮮烈に表現していると考えます。誰もが自らの妄想で世界を「放火」しようとし、同時に他者の火を「消火器」で消し去ろうとして混乱を深める、人間の喜劇的な構造が浮き彫りにされています。
十二人の登場人物たちが噛み合わない議論を続ける中で登場する「放火」と「消火器」は、「燃やしたい衝動」(放火)と「消してしまいたい衝動」(消火器)の間で右往左往する人間の喜劇的な姿を際立たせるための視覚的・観念的な小道具であるといえるのです。
本作品の味わいどころ③
出口のない「迷宮」としての「病院」
本作品の舞台美術における最も視覚的かつ象徴的な仕掛けが、「並んだ九つのドア」と考えられます。台本の中に記されている舞台設定は、「病院の大広間」「九つのドア」「一隅にピンポン台」「九つの椅子」だけですあり、ドアが九つもある異常さだけが際立っているのです。この戯曲から舞台を脳内に再現すると、十二人の人物たちが、頻繁に九つのドアから出たり入ったりしている様子が見えてきます。ここにも安部らしい不条理な意味が込められていると考えます。
登場人物たちは展開に行き詰まったり、追いつめられたりするとドアから逃げ出しますが、別のドアから再び同じ空間へと戻ってきてしまいます。九つもドアがあるのに、一つとして「本当の現実」「外の世界」へ通じる出口がないのです。舞台は「精神病院の隔離病棟」という設定なのでしょうが、まるで「逃げ場のない自己の内面の迷宮」のようです。ドアが無数にあること自体が、逆に彼らが完全に閉じ込められていることを強調しているのでしょう。
さらに、ドアの向こうに消え、再び現れる人物たちは、同じ「個」としての連続性を失っているようにさえ見えます。ドアをくぐるたびに彼らは自分の「色眼鏡」(=立場・役割・主義)を掛け直し、新たな論理で議論に復帰しているのです。
安部の戯曲において、舞台装置は単なる背景ではなく、それ自体が思想を語る巨大な小道具として機能します。「九つのドア」は、外へ抜け出せる「選択肢・可能性」がたくさんあるように見せかけながら、実は「どのドアを選んでも、自分自身の色眼鏡(=偏見・思い込み)からは絶対に逃れられない」という安部公房の冷徹な不条理観を提示する仕掛けとして機能しているのです。
4 本作品の上演に関わること
本作品「愛の眼鏡は色ガラス」の上演頻度は、他の代表的な安部公房劇と比べるとかなり少なく、「上演機会の限られたマニアックな演目」であるといえます。安部作品の中でも屈指の難解さと独特な劇的構造を持っているため、頻繁に再演されるタイプの劇ではないのでしょう。事件が起きて解決に向かうような「物語性」がなく、観客を退屈させずに九十分以上「不毛な議論」のテンポを維持するのが、俳優にとっても演出家にとっても至難の業であることは容易に想像できます。
それでも演劇ユニット「笛井事務所」の企画により、2016年には東京で連続上演されました。安部公房の生誕90周年〜100周年に向けた再評価の流れの中で選ばれた、非常に貴重な機会でした。
5 おわりに
安部の作品は、物語の筋書きを追ってストーリーを楽しむというよりは、「不条理なルールで動く実験室に放り込まれた体験」そのものを楽しむような面白さがあります。「なんだかよくわからない…」という読み手の戸惑いこそが、実は安部が仕掛けた罠であり、そこから「なぜこの小道具があるのだろう?」「なぜこんな不条理な行動をとるのだろう?」と、安部ラビリンスの構造を解き明かしていくプロセスにこそ、安部文学の本当の醍醐味があります。ぜひご賞味ください。
(2026.9.2)
〔「緑色のストッキング・未必の故意」〕
未必の故意
愛の眼鏡は色ガラス
緑色のストッキング
ウエー(新どれい狩り)

〔関連記事:安部公房作品〕



〔安部公房の本はいかがですか〕

【今日のさらにお薦め3作品】



【こんな本はいかがですか】







