「雨のなかの噴水」(三島由紀夫)

「他者不在」と「コミュニケーションの欠如」

「雨のなかの噴水」(三島由紀夫)
(「百年文庫042 夢」)ポプラ社

「別れよう!」。
この一言を言うために、
明男は雅子を愛し、
愛したふりをし、
しゃにむに一緒に寝たのだった。
明男は不明瞭ながらも
その一言をついに口にする。
雅子は止めどもなく涙を流す。
明男は6月の雨の中、
噴水を見に行く…。

三島由紀夫の短篇です。
本アンソロジー以外にも
収録されることが多く、
三島由紀夫の
隠れた傑作となっています。
寓話的でもあり、
文学者や批評家が様々な解釈を
試みた作品でもあります。
私が注目したのは明男の人間性です。

別れの一言を言い放つためだけに
女性とつきあってきた。
もし現実の世界に
そうした男がいたとしたら、
人格的にかなり問題があると
いわざるを得ません。
しかしそれだけではないのです。
描かれている
いくつかの場面を見てみます。

喫茶店の中の明男は、
その一言を言うことだけしか
頭にありません。
雅子がそれをどう受けとめるかなどは
一切考えていないのです。
雅子の涙に接しても、
「それをじっと眺めている自分の心の、
薄荷のような涼しさに
うっとり」するだけであり、
さらにはその涙の量の豊富さに
「愕」いただけなのです。

雨の中を歩く場面もまた然りです。
傘に入れてやるのも「冷たい心のまま
世間体を気にする大人の習慣を
見いだし」たからであり、
噴水を見に行こうと思ったのも、
それと「雅子の涙を対決させてやろう」と
思いついたからだけなのです。

噴水を眺める場面もまた同様です。
勝手に「いいしれぬ怒りにかられ」、
「何とも知れぬ不如意を
嘆いて」いるだけなのです。
そして「どうしても雅子を
雨に濡れさせ」なければ
気が済まなくなるのです。
冒頭からここまで、「別れよう」以外の
言葉のやりとりはありません。

「他者不在」と
「コミュニケーションの欠如」。
それが明男から受ける印象なのですが、
なぜか目新しく感じません。
なぜなら現代には
そのような人間は身のまわりに
大勢存在しているからです。

「金閣寺」の溝口、
「仮面の告白」の「私」など、
屈折した青年主人公を
産みだしてきた三島由紀夫。
本作品の明男にも
そうした影を見いだしてしまいます。
しかし発表時の昭和38年では
異質な人間像が、令和元年では
さほど大きなインパクトの
生じないのは致し方ありません。

本作品は表題通り「雨のなかの噴水」の
意味を考えるべき作品なのかも
知れません。
時間をおいて
もう一度読み直したいと思います。

(2019.6.7)

Arek SochaによるPixabayからの画像

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