「外套」(ゴーゴリ)

実はゴーゴリのユーモラスに辿り着く

「外套」(ゴーゴリ/浦雅春訳)
(「鼻/外套/査察官」)
 光文社古典新訳文庫

ぼろぼろの外套を羽織って
出勤するしがない貧乏役人の
アカーキエヴィチは、
外の寒さが厳しくなった
ある日、思いきって
新品の外套をあつらえる。
その姿を見た上司が
「外套新調記念」パーティを催す。
帰り道、彼は追いはぎに遭い…。

ロシア文学というと、長大で、重厚で、
暗鬱なイメージがありました。
当ブログでここまで取り上げたものを
みてもそうです。
ドストエフスキー
「カラマーゾフの兄弟」、長大です。
トルストイ
「神父セルギイ」、重厚です。
ゴーリキー
「二十六人とひとり」、暗鬱です。
でも本作品は全く違います。

さて、帰り道で追いはぎに遭った
アカーキエヴィチはどうなったか?
なんと新調し立てのその外套を
奪われてしまうのです。
ただの新しい外套ではありません。
彼にとってその外套は、
我慢と節約を重ねた忍耐の結晶であり、
ようやく訪れた
ささやかな幸福の証であり、
女性に縁のなかった彼にとっての
生活の伴侶ともいえる
存在だったのです。
それを奪われたのですから、
不幸もここに極まれりと
いうしかありません。
しかし不幸はさらに続きます。

彼は盗難の一件を警察に訴えますが、
簡単に追い返される始末です。
消沈した彼は病に倒れ、
ついに帰らぬ人となります。

ここで終わっていれば
悲劇にしかなりません。
本作品の肝はその後です。
数日後、サンクトペテルブルグの街に、
夜な夜な役人の幽霊が現れ、
誰彼構わず外套を引っぺがすという
出来事が繰り返されるのです。

下級役人の悲哀を描いていますが、
ドストエフスキーのような
シリアスさはありません。
役人の横暴が盛り込まれていますが、
ソルジェニーツィンのような
強い体制批判ではありません。
最後に幽霊が現れますが、
泉鏡花や岡本綺堂のような
怪奇小説の類いではありません。

強いて同じ視点の作品を挙げるとすれば
芥川龍之介の「芋粥」でしょうか。
卑小な人間の哀しさを
シニカルに描くことについては、
芥川も天下一品です。

そう考えると、本作品は風刺小説と
みるべきなのかもしれません。
ロシアは今も昔も
自由な言論のできないお国柄。
これが限度いっぱいの
社会風刺(体制批判ではなく)
だったのでしょうか。
社会の不平等を直接表現すれば、
すぐ牢屋行きです。
皮肉をたっぷり込めながら
ユーモラスに描くしか
なかったのかもしれません。

さて、このゴーゴリ、
かのドストエフスキーが、
「われわれはみな
ゴーゴリの『外套』から生まれた」と
述べたとおり、ロシア文学の
源流ともいえる存在なのです。
ドストエフスキーの長大さ、
トルストイの重厚さ、
ゴーリキーの暗鬱さの源は、
実はゴーゴリのユーモラスに
辿り着くと考えると
面白いものがあります。

(2020.1.22)

donteraseによるPixabayからの画像

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