「内蔵允留守」(山本周五郎)

自ら求め、探しだしたものこそ、その人間の本当の力となる

「内蔵允留守(くらのすけるす)
(山本周五郎)
(「教科書名短篇 人間の情景」)
 中公文庫

兵法の皆伝を許された虎之助は、
師の指示で
別所内蔵允を師範とすべく
彼の住む片田舎へと足を運ぶ。
ようやく探し当てたものの
内蔵允は留守で、
その屋敷には
同じく教えを請おうとする
不逞な輩が数人居座っていて…。

弱冠25才の若き侍・虎之助は、
その輩たちから
喧嘩をふっかけられるのですが、
人間ができていたので
笑って素通りします。
そして内蔵允が帰宅するまで
近くの労農夫の家に
仮住まいするのです。
そこから彼の物語が始まります。

老人の農作業を手伝おうと、
虎之助は鍬を振るうのですが、
老人の足元にも及びません。
三日で音を上げそうになります。
そして彼は老人に
ただならぬものを感じるのです。
「内蔵允に秘奥を
 問おうとする目的は動かないが、
 それよりも先に、
 そしてもっと深く、
 老人から学ばなければ
 ならぬものがあるように思う」

本作品で、
私が深く考えさせられたのは
次の二つの文章です。
一つは虎之助の師が彼に与えた言葉
「およそ道を学ぶ者にとっては、
 天地の間、
 有ゆるものが師である」

もう一つは老人が彼に諭した言葉
「いずれの道にせよ極意を
 人から教えられたいと
 思うようでは、まことの道は
 会得できまいかと存じます」

手取り足取り教えられたものは、
本当の意味でその人間の
身に付いたものではないと思います。
自ら求め、
探しだしたものこそ、
その人間の本当の力と
なるのではないでしょうか。
教育もそうあるべき。
私は常々そう思っています。

先日取り上げた茨木のり子の
「詩の心を読む」の中に
次のような一節があります。
「教育の名に
 値するものがあるとすれば、
 それは自分で自分を
 教育できたときではないのかしら。
 教育とは誰かが手とり足とり
 やってくれるものと思って、
 私たちはいたって受動的ですが、
 もっと能動的なもの。
 自分の中に一人の
 一番きびしい教師を育てえたとき、
 教育はなれり、という気がします。」

残念ながら10代で
すでに学ぶことを諦めている
子どもたちも多いのが実状です。
物資の豊かな時代に生まれながら、
心の豊かさを
求めようとしないのです。
本作品の「不逞の輩たち」が
あまりにも多いと感じてしまいます。
何とかして虎之助のように、
自ら求めて学び、
周囲のすべてから
吸収することのできる
人材を育てたいと思います。

さて、虎之助は内蔵允と
巡り会うことが
できたのかできなかったのか。
ぜひ読んで確かめてみて下さい。
山本周五郎ならではの、
心の温まる作品です。

(2020.2.7)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA