「ヤトラカン・サミ博士の椅子」(牧逸馬)

暗闇からナイフを突き立てられたような

「ヤトラカン・サミ博士の椅子」
(牧逸馬)(「新青年傑作選集4」)
 角川文庫

「新青年傑作選集4」角川文庫

せいろんへ、せいろんへ、
せいろんへ、
山高帽をへるめっとに替えた
英吉利人が、
肩からすぐ顔の生えている
じゃあまんが、
あらまあと鼻の穴から発声する
亜米利加女が、
肌着を洗濯したことのない
猶太人が、しかし、
仏蘭西人だけ…。

古典的ミステリを探し、
この角川文庫刊の「新青年傑作選集」
辿り着きました。
昭和52年に刊行された全五巻。
聞き知らぬ(わたしが
知らないだけなのですが)名前の
作家たちの作品が
数多く収められています。
本作品は第四巻の第一作、
牧逸馬の作品です。

筋書きはないに等しい作品であり、
例によって途中の一節を
抜き出しました。
まるで一世紀前の旅行代理店の
広告文かと勘違いしそうですが、
全篇このような調子です。

短篇ながら七つの章に分けられていて、
それぞれ以下のような
記述がなされています。
〔本作品の章立て〕
「一」
舞台となるセイロンの街並みや
住人たちの風習や習慣等について
「二」
セイロンに対する
ヨーロッパ人の旅行熱について
「三」
マラカム街の賑わいのようすについて
この章末でヤトカラン・サミ博士の名が
初めて記述される
「四」
博士が日本人観光客と
接点をもとうとするようす
日本人観光客の読んでいる
新聞記事について
「五」
博士の手相占いと
占星術との関わりについて
博士が常に座っている車椅子と、
博士の身のまわりについて
「六」
博士の手相学と
それを裏打ちする神秘学について
博士の車椅子の成り立ちの
秘密について
「七」
作者の独り言

これだけ見て、一体どんな小説か
理解できる人などいないでしょう。
ぜひ読んで確かめてください。

〔青空文庫〕
「ヤトラカン・サミ博士の椅子」(牧逸馬)

読み終えましたか?
実はホラー、もしくはサスペンス、
あるいは広い意味での
ミステリなのです。
「一」から「六」の大部分を使って
背景となる舞台の説明を
くどいほど入念に行い、
読み手を煙に巻きながら、
読み手の心の防御を解かせます。
隙だらけになったときに、
「六」の最後の部分で、
ホラーが襲いかかってきます。
あたかも暗闇からナイフを
突き立てられたような気分です。

そして秀逸なのは「七」。
いきなり脅かしておいて、
最後に「実はうっそー!」と、
すっとぼけたような結びが入ります。
「あらゆる天候によごれ切った、
 皺のふかい顔と、
 奇妙なかたちの彼の椅子とを
 見ているうちに、
 私のあたまを
 こんな幻景が走ったのである。」

さて、調べてみてわかりました。
この牧逸馬なる探偵作家、
林不忘の別名で「丹下左膳」シリーズを
書いていた作家なのでした。
牧逸馬はミステリや家庭小説、
翻訳物などに使用し、
さらにアメリカ体験記となる
「めりけんじゃっぷ」を谷譲次名義で
書いている売れっ子作家なのです。
本名は長谷川海太郎。
その弟が長谷川四郎です。
本作品などマニアックすぎて、
どう考えても売れそうには
見えないのですが、
もしかしたらいろいろなタイプの作品を、
3つの名前を使って
書き分けていたのかも知れません。
また一人、興味を引きつけられる作家と
出会うことができました。

〔「新青年傑作選集4」〕
ヤトラカン・サミ博士の椅子 牧逸馬
死屍を食う男 葉山嘉樹
紅毛傾城 小栗虫太郎
可哀想な姉 渡辺温
鉄鎚 夢野久作
痴人の復讐 小酒井不木
柘榴病 瀬下耽
告げ口心臓 米田三星
聖悪魔 渡辺啓助
本牧のヴィナス 妹尾アキ夫
エル・ベチョオ 星田三平
マトモッソ渓谷 橘外男
芋虫 江戸川乱歩

(2023.4.7)

Lahiru SupunchandraによるPixabayからの画像

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