「百年文庫069 水」

その水面に身を浮かべている人間の生命

「百年文庫069 水」ポプラ社

「百年文庫069 水」ポプラ社

「生物祭 伊藤整」
それは北国の春であった。
父の病気をとり巻いて
私を育てた北国の自然は
春の真盛なのだ。
空気は暖くよどんで、
黒い掘返された畑の間の
林檎の花や牛や馬や鶏などを
暖めていた。
それは頭痛持ちの母を
悩ます期節であり、
私と弟が…。

百年文庫第69巻「水」です。
しかし、「水」そのものを描いた
作品集ではありません。
巻末の紹介文に「時の流れの中に浮かぶ
生命を描いた」とあるように、
時代の潮流を「水」に見立て、
その水面に身を浮かべている
人間の生命を描き出した
三篇の作品なのです。

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第一作、伊藤整の「生物祭」は、
病床で死にゆく父と、
命の芽吹きが盛んである春の風景との、
鮮やかなコントラストに
胸を打たれます。
終わりゆく生命のはかなさと、
生まれくる生命の力強さとを、
同時に感じさせる作品です。
「死」と「生」を描き出しながら、
さらに「生」の延長線上に
「性」までも写しだし、
その彩りは
さらに豊かなものになっています。

「春は馬車に乗って 横光利一」
肺病で臥せっている「妻」と、
夫である「彼」の会話は、
刺々しくなることが多くなった。
彼女は病の焦燥から、
夫が文筆の仕事で
隣室へ離れることにも
難色を示すようになる。
やがて彼女は咳の発作とともに、
暴れて夫を困らせるが…。

第二篇「春は馬車に乗って」。
表題自体は何やら
少女漫画のようなイメージですが、
主題には重みを感じます。
一読しても筋書きらしいものが
感じられず、病床日記のような
作品にも思えるのですが、
決してそれだけの作品ではありません。
この一作こそ、「水」を読み取り、
「生命」を肌で感じるべき作品なのです。

本作品は
5つの部分に分かれていますが、
それぞれの冒頭部分で「水」が描かれ、
それが夫婦間の
心の動きを示しているのです。
淡々とした会話を積み重ねるとともに、
周囲の水を中心とした
風景、生物、気象状況等を
表現の手段として最大限に用い、
死を迎えた妻と、
その妻を看取る夫の情愛と葛藤を、
読み手に余すところなく
伝えきっています。

「廃市 福永武彦」
「僕」が紹介された
旧家・貝原家には、おばあさんと
その娘・安子がいるだけで、
若夫婦とは
顔を合わすことがなかった。
ある日、墓参りする安子に
同行した「僕」は、
寺で安子と姉・郁代が
対座しているのを目撃する。
そこにはどんな事情が…。

第三篇「廃市」には、
作品自体に沈鬱な表情が読み取れます。
滅びへと向かう街と人間の、
美しさと哀しさが浮かびあがる
作品となっているからです。
絶えず流れて変化し、
その清さを
保ち続けている「水」に対して、
それに囲まれている「町」と「人」の、
何と淀んでいることか。
両者の陰影の鮮明さに驚かされます。
当然、「町」も「人」も、
淀んだ末の「滅び」を迎えます。

三篇とも、筋書きを味わう類いの
作品ではありません。
そこに描出された「水」から
「生命」を感じ取る作品なのです。
どう感じ取るかは
読み手の裁量に任されていると同時に、
読み手の人間性と教養の多寡が
如実に表れる試験紙のような
作品群なのです。
短い作品でありながら、
一読しただけでは
その全貌を掴むことのできない、
なかなかに手強い作品たちであり、
だからこそ、いつまでも
読み味わいたいと思えるのです。
百年文庫全100冊の中でも
難度の高い一冊ですが、
ぜひ挑戦していただきたいと思います。

〔伊藤整の作品について〕
日本文学に
多大な足跡を残した伊藤です。
その作品は一時期、
店頭から姿を消しましたが、近年、
評論を中心に、
いくつか復刊しています。
「女性に関する十二章」は、
1974年に文庫化され、80年代には
すでに絶版化していましたが、
2021年、単行本として復刊しています。

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小学館の企画による、
入手困難な昭和の名作を
紙と電子で同時発売する新レーベル
「P+D BOOKS」からは、
「若い詩人の肖像」「変容」の2作品が
単行本として発売されています。

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なんと平凡社からは2021年、
「伊藤整 日記」全8巻が
刊行されています。

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電子書籍も以下のように
いくつか見られるようになりました。
「氾濫」
「太平洋戦争日記(一)」
「太平洋戦争日記(二)」
「太平洋戦争日記(三)」

〔横光利一の作品について〕
文庫本については、
「春は馬車に乗って」を収録した
岩波文庫と新潮文庫からの作品集が
流通しているだけです。

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最近、立東舎の
乙女の本棚シリーズからも
出版されています。

講談社文芸文庫に収録された作品は
いくつか電子書籍化されつつあります。

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〔福永武彦の本〕
「廃市」は「廃市/飛ぶ男」に
収録されていますが、すでに絶版です。

ただし、「P+D BOOKS」
および電子書籍で復刊しています。

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「P+D BOOKS」では、
以下の作品も復刊しています。

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文庫本も以下のものは流通しています。

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伊藤整、横光利一、福永武彦、
それぞれが味わいのある作品を
編み上げているのです。
十分に愉しみましょう。

(2023.8.22)

PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像

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