「春の絵巻」(中谷孝雄)

作品の裏側に透けて見える時代の潮目

「春の絵巻」(中谷孝雄)
(「招魂の賦」)講談社文芸文庫
(「百年文庫068 白」)ポプラ社

「こんな美しい風景を見ていると、
生れて初めて春に逢ったような
気がするじゃないか…」
岡村はひとりではしゃぎながら、
やがて又三人に背を向けて、
対岸の風景に目をやった。
その態度には、
何か他人のことを
顧みないようなものが…。

粗筋をまとめることができず、
作品序盤の象徴的な部分を
抜き書きしてみました。
中谷孝雄の短編「春の絵巻」です。
うららかな雰囲気の漂う
表題とは裏腹に、
「生れて初めて春に逢ったような
気がする」と口にした青年は、
その日のうちに自ら命を絶ちます。
なかなかに重厚なテーマの作品です。

〔主要登場人物〕
石田

…旧制高校生。
 恋人がほしいと思っている。
丹羽保科
…石田と同じクラスの学生。
岡村
…石田たちと同じクラスの学生。
 年齢は三つほど上。自殺する。
葉子菊枝民子
…石田・丹羽・保科が出会った
 三人組の娘。

本作品の味わいどころ①
対比される古都京都の顔

作品冒頭に描かれるのは、
石田たちが出かけた花見の風景。
舞台である京都・嵐山の風景が、
色彩豊かに表現されています。
あたかも京都観光案内のような雰囲気を
たたえており、表題とともに、
明るく華やかな印象を
読み手に伝えます。
しかしその一方で
後半部分で描かれる舞台は、
京都の古い町並みだけなのです。
古き良き時代の町・京都。
しかしその古都も、
昭和初期の段階ですでに
観光地としての顔を
持ち合わせていたのです。
その描かれ方に、
どうしても古い時代と新しい潮流の
せめぎ合いを感じてしまいます。
これが作品の主題を下支えする
通奏低音としての役割を担っていると
考えられます。
この、対比される古都・京都の
二つの顔こそ、
本作品の第一の味わいどころなのです。
しっかりと味わいましょう。

本作品の味わいどころ②
対比される青春の光と影

その華やかな花見で浮かれる嵐山で、
石田たちと偶然顔を合わせた
級友・岡村は、三人と別れたその後、
自ら命を絶つのです。
冒頭場面とは一転、
重苦しい雰囲気に包まれるのですが、
それはほんの一時です。
岡村が自らの命を
終えようとしているとき、
彼と別れた石田たち三人は、
レストランで知り合った娘三人と、
グループ交際的に
青春を謳歌しているのです。
彼の死を伝え聞いたそのあとも、
石田は友人を失った悲しみを
忘れたかのように、
自らの恋人探しに夢中になるのです。

一方で若くして「死」を選ぶ
若者を描きながら、
他方で「生」が描かれているのです。
「死」については、
事故や病によるものではありません。
自ら望んだ「死」なのです。
そして「生」はその命の輝きが
最も発露している
「恋」として描かれます。
死への憧憬と生への渇望、
どちらも若者特有の心の作用であり、
「生」と「死」が強烈なコントラストで
読み手に迫ってきます。
読み手がいやでも
生きることと死ぬこと、
それぞれの意味を考えざるをえない
しくみになっているのです。
この、対比される青春の光と影こそが、
本作品の第二の
味わいどころとなるのです。
じっくりと味わいましょう。

本作品の味わいどころ③
写し出される時代の潮目

本作品の発表(雑誌掲載)は
1934年(昭和9年)。
大正デモクラシーの余韻の
まだ十分に残っていた時代であり、
自由主義の風潮は本作品からも
しっかりと感じ取られます。
民本主義(吉野作造)や
天皇機関説(美濃部達吉)など、
自由主義的な政治理論は
知識人層に根強く残っていました。

しかしこれらの思想は1934年以後、
「国体論」や「国家主義」の台頭によって
次第に批判され、
特に天皇機関説は1935年に
政権から完全否定されるなど、
自由主義の立場は
急速に弱体化していきます。

さらに本作品が単行本として
出版された1937年(昭和12年)には、
盧溝橋事件を契機に日中戦争が勃発、
国民生活にも
影響を及ぼすようになります。
翌1938年には国家総動員法が制定され、
戦意高揚の重苦しい空気が
世の中を支配、自由な言論や思想は
抑圧されていきました。

本作品はまさにこの時代の転換点に
書かれた作品なのです。
同級生・岡村の自死を深く気にとめずに
花見や恋人探しに浮かれていた
石田たちの姿は、
密かに群靴の音が鳴り始めていたことに
気づかないまま
自由主義を謳歌していた当時の民衆の
それに重なります。
一般人が気づけなかった戦争の影を、
文化人・中谷が
敏感に肌で感じ取っていた可能性は
大きいはずです。
この、作品の裏側に透けて見える
時代の潮目こそ、本作品の最大の
味わいどころとなっているのです。
たっぷりと味わいましょう。

友人の自殺という
重い出来事を扱いながら、
それを過度に悲劇的には描かず、
むしろ青春の一断面として
淡々と表している、
一読して違和感を感じざるを得ない
本作品。
だからこそ、いろいろな読み取り方が
可能なのでしょう。
著作のほとんどが絶版状態となり、
忘れ去られつつある
作家・作品なのですが、
一読の価値ありです。
図書館や古書で、ぜひご賞味ください。

(2025.9.17)

〔「招魂の賦」講談社文芸文庫〕
招魂の賦
抱影
春の絵巻
桂子

〔百年文庫068 白〕
冬の蠅 梶井基次郎
春の絵巻 中谷孝雄
いのちの初夜 北条民雄

「冬の蠅」

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