
自然災害が直撃するのはいつも貧しい人間
「雨」(広津柳浪)
(「今戸心中 他二篇」)岩波文庫
今日で十日ばかりと云ふもの、
一時間とは靑空を仰いだ事がない
霖雨に、
なべての人氣を腐らす中にも、
其日々々に
朝夕の料を稼がねばならぬ
細民の難澁は、
實に眼も當てられぬ有様、
此上一週間も此雨霽れずんば、
米屋を手初として…。
冒頭の一節を抜き出してみました。
筋書きはあるのですが、
この冒頭部の長雨が
貧しい人間を直撃している描写こそ、
明治35年に書かれた本作品の
主題そのものだからです。
「今戸心中」「變目傳」などが知られている
広津柳浪の短篇作品です。
〔主要登場人物〕
八重
…貧乏暮らしをしている女性。
半年前までの三年間、茶屋に売られ、
苦労を重ねた。
吉松
…八重の夫。稼ぎの少ない職人。
八重にも八重の母親にも優しい。
お重
…八重の母親。情人との乱行の結果、
娘・八重を茶屋に売り飛ばした。
八重夫婦にたびたび無心をする。
志米
…八重を慕う少女。
奉公に出されることを八重に告げる。
本作品の味わいどころ①
八重の貧しさとお重の強欲さ
嫌悪感ばかりが湧き上がり、
読むのがつらくなる作品です。
八重の実の母親・お重は、
自らの生活の質を
落としたくないがために、
自分より貧しい生活をしている
娘夫婦にたかっているのです。
それも自分たちの暮らしを削って
差し出す金銭に対し、
さも「これっぽっち」と言うかのような
振る舞いを持って接するのです。
八重はかつて
情人との生活費(遊行費)のために
お重から茶屋へと
身売りされた過去があるのです。
三年間耐えに耐え抜いて
ようやく巡り会った
吉松とのささやかな幸せ。
それを踏みにじるお重の姿は
腹立たしさしか感じさせません。
作者・広津柳浪は、
そうした現状を当時の実社会の中で
見聞きしてきたのでしょう。
明治の文学作品の
いくつかに見られるように、
本作品もまた、
そうした社会の底辺に生きる人間の姿を
描き出したものなのです。
現代の私たちは、
遠い過去となった明治の時代の社会を
読み解きながら、
現実の世の中と比較し、
そこから学ぶべきものを
見いだしていかなくては
ならないのです。
この、
明治の社会を描出した筋書きとしての
八重の貧しさとお重の強欲さこそ、
本作品の第一の味わいどころなのです。
しっかりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ②
八重の貧しさと志米の貧しさ
ところが、広津の描く明治の貧しさは
それだけにとどまりません。
冒頭部、身売りに出されるお志米が、
姉のような存在である八重に、
いとまを告げる場面が
描かれているのです。
二人の台詞を拾い上げていくと
気づかされることがあります。
六畳一間の八重の部屋を、志米は
「広い」と言って羨ましがるのです。
志米の部屋は何と三畳間に
家族七人が押し合っているのです。
冒頭部をよく読み返すと、
八重の長屋は東京の貧民窟の入り口に
さしかかるところに存在し、
志米はその貧民窟のど真ん中で
生活せざるを得ない状態なのです。
貧しさにあえいでいるとはいえ、
八重はまだ恵まれている方なのです。
こうした表現の配置が、
読み手の心に深く刺さってくるのです。
この、当時の社会の問題点を
鋭く告発している、
八重の貧しさと志米の貧しさの
対比こそ、本作品の第二の
味わいどころとなるのです。
じっくりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ③
八重と吉松はどこへ消えた?
その貧しさに押しつぶされるように、
吉松は金の工面のために間違いを犯し、
もはや長屋にとどまることを
許されない状態に陥るのです。
最後の場面が秀逸です。
「吉松とお八重は二人手を携えて、
納涼にでも行く體で家を出たきり、
つひに歸らなかつた。
死んだのか生きて居るのか、
結局分らず了いであつた」。
これ以上、絶望的な気分に
なることのないようにという
作者の配慮でしょうか。
悲劇の結末を
ことさら悲劇的には書き表さず、
静かな余韻を持って幕を引いています。
読み手はほんのわずかな希望を
想像する余地を与えられたのです。
この、八重と吉松がどこへ消えたか、
曖昧にしながら閉じられる
筋書きの妙こそ、本作品の最後の
味わいどころとなっているのです。
たっぷりと味わいましょう。
読み終えると、
少しだけ不安になるはずです。
これは明治だけの話だろうかと。
再び貧困が日本を覆っています。
しかし明治とは異なり、
現代ではそれを問題提起してくれる
小説家はいないのです。
いやいや、そんなことを考えずに、
120年前の傑作文学作品を
堪能しましょう。
(2025.11.24)
〔「今戸心中 他二篇」〕
變目傳
今戸心中
雨
父、柳浪のこと 廣津和郎
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