「物言ふ心臓」(ポー)

読み手は五里霧中を彷徨うように

「物言ふ心臓」(ポー/渡辺温訳)
(「ポー傑作集」)中公文庫

「告げ口心臓」(ポー/小川高義訳)
(「黒猫/モルグ街の殺人」)
 光文社古典新訳文庫

貴方は私を狂人だと思ふでせう。
狂人は何も知つては
ゐないものです。
所が貴方は私が、
あらゆる事を承知した上で、
用意周到さと猫冠りとを以て
自分の計画を遂行したことが
御分りになつたら
よもや私を
狂人とは仰有らないでせう…。

ポーの作品からまた一つ。
本作品は「黒猫」によく似た趣です。
殺人を犯し、屍体を隠蔽する。
警察が取り調べに来る。
それをうまくごまかすことに
成功するものの、土壇場になって
自らそれを告白してしまう。
まったく似たような展開です。
しかし「黒猫」とは異なり、
多くの「謎」を抱える
作品となっています。

〔主要登場人物〕
「私」

…語り手。同居する老人を殺害し、
 死体を隠匿する。
「老人」
…「私」と同居する人物。
 その目つきが「私」を恐れさせる。

本作品の味わいどころ①
「信頼できない語り手」の妙

語り手「私」は冒頭において
必要以上に自らが
精神病患者ではないことを
読み手に訴えています。
しかしすべてを読み終えると、
精神に異常を来しているとしか思えない
箇所がいくつも目につきます
(そもそも目つきを理由に
殺人を犯す段階ですでに異常)。
「私」はいわゆる
「信頼できない語り手」なのです。
したがってわずか数頁の
短篇でありながら、
本作品には数多くの「謎」が
仕掛けられています。
読み手は書かれてあることの真偽を
一つ一つ確かめ、
その仕掛けられている「謎」を解いて
読み進めなくてはならないのです。
この、「信頼できない語り手」の妙こそ、
本作品の第一の味わいどころなのです。
しっかりと味わいましょう。

本作品の味わいどころ②
「私」と「老人」の関係性の謎

本作品における大きな謎の一つは、
「私」と「老人」の関係性です。
同居している以上、
まさか他人ではないでしょう
(そもそも他人であれば殺害せずとも
追い出せばいいだけ)。
二人の年齢差を考えると「親子」、
つまり息子である「私」が、
父親である「老人」を殺害したと
考えるのが最も適当でしょう。
しかしそれならなぜ
「父親」と書かなかったのか?
親子の愛情など
とうに消失していることを
表したかったのか?
親子であるなら、
なぜ「眼」の問題だけで
殺害しなければならなかったのか?
なぜ殺害するのにじわじわと
恐怖を与える必要があったのか?
わからないことだらけです。

その関係性にはさらに謎があります。
日本人の私たちが
邦訳されたものを読んだ場合、
「私」が男性であることに
まったく疑いを持ちません。
日本語は話し方に性差があり、
台詞に注目すると
男であるか女であるか判別がつきます。
しかし原文の英語の場合、
そうした性差はないはずです。
話し方以外に「私」が男性であることを
示す部分は見つけられません。
「私」が男性であるという訳者の判断を、
私たちは無意識のまま
すり込まされているのであり、
「私」が女性である可能性も
否定できないのです。
だとすると「私」と「老人」の関係の
可能性はさらに広がってくるのです。
この、「私」と「老人」の関係性の
謎を考えることこそ、本作品の
第二の味わいどころとなるのです。
じっくりと味わいましょう。

本作品の味わいどころ③
「ホラー」と「罪悪感」の境界

そして大きな謎のもう一つは、
「私」を恐怖させた「音」の正体です。
「私の耳許へ、低い鈍い、然し早い
 ――恰度、綿の中に時計を
 包んで置くやうな――音が
 聞えて来ました」

その音を、
信頼できない語り手である「私」は
「老人の心臓の鼓動」であると
語っているのですが、
その言葉を信じるとすれば、本作品は
「ホラー」ということになります。
死体となって埋められた老人の心臓音が
耳に聞こえるはずがありません。
いや、生きている人間の心音すら
音として伝播することは
ないのですから。

しかしその音を
「私」自身の「心臓の鼓動」と解釈すると、
原因は「幻聴をもたらすほど大きな
罪悪感」ということになるはずです。
殺人を犯したという強烈な罪の意識、
そしてそれが
発覚するかもしれないという恐怖心、
それらが「私」の精神を崩壊させたと
考えるのが自然です。
「音」の正体は、
本作品のジャンルが「ホラー」なのか、
あるいは本作品の主題が
「人間の持つ罪悪感」に
焦点を当てたものなのか、
本作品の在り方自体に
大きく関わってくるのです。
この、「ホラー」と「罪悪感」の境界を
見極めることこそ、本作品の第三の
味わいどころとなっているのです。
たっぷりと味わいましょう。

あえて細部を明確にせず、
さらには殺人とその露見の部分だけを
切り取り、そこに至るまでの過程を
一切明らかにしていないという
作品構造が、
こうした「謎」を生み出しています。
「信頼できない語り手」である
「私」の語りが、それらをさらに
霞の向こうへと押しやっています。
読み手は五里霧中を彷徨うように
読み進めなくてはならないのです。
短いながらも濃厚な味わいの本作品、
ぜひご賞味ください。

(2025.11.28)

〔「ポー傑作集」中公文庫〕
黄金虫 渡辺温 訳
モルグ街の殺人 渡辺温 訳
マリイ・ロオジェ事件の謎 渡辺温 訳
窃まれた手紙 渡辺啓助 訳
メヱルストロウム 渡辺啓助 訳
壜の中に見出された手記 渡辺温 訳
長方形の箱 渡辺温 訳
早過ぎた埋葬 渡辺啓助 訳
陥穽と振子 渡辺啓助 訳
赤き死の仮面 渡辺温 訳
黒猫譚 渡辺啓助 訳
跛蛙 渡辺啓助 訳
物言ふ心臓 渡辺温 訳
アッシャア館の崩壊 渡辺啓助 訳
ウィリアム・ウィルスン 渡辺温 訳
 渡辺温 江戸川乱歩
 春寒 谷崎潤一郎
 温と啓助と鴉 渡辺東 著
 解説 浜田雄介

「黒猫譚」
「赤き死の仮面」
「早過ぎた埋葬」

〔光文社古典新訳文庫
   「黒猫/モルグ街の殺人」〕

黒猫
本能vs.理性──黒い猫について
アモンティリャードの樽
告げ口心臓
邪鬼
ウィリアム・ウィルソン
早すぎた埋葬
モルグ街の殺人
 解説/年譜/訳者あとがき

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