「ブラフマンの埋葬」(小川洋子)

想像をかき立てるブラフマン、そして作品世界

「ブラフマンの埋葬」(小川洋子)
 講談社文庫

夏のはじめのある日、
ブラフマンが
僕の元にやってきた。
朝日はまだ弱々しく、
オリーブ林の向こうの空には
沈みきらない月が
残っているような時刻で、
僕以外に目を覚ました者は
誰もいなかった。
ブラフマンは
裏庭のゴミバケツの…。

小川洋子の不思議な一篇です。
語り手を含めた登場人物も正体不明なら
ブラフマンと名付けられた
小動物の正体も不明、
舞台となる村も時代も
詳細はまったく記されていません。
読み始めると読み手の心は
作者の創り上げた世界へと
迷い込んでいくのです。

〔主要登場人物〕
ブラフマン

…小動物。尻尾の長さは
 胴体の約1.2倍で自由自在に動く。
 足の指の間には
 水かきが収納されている。
 足の裏には五つの肉球がある。
「僕」
…語り手。
 アーティストたちが創作のために集う
 「創作者の家」の管理人を務める。
 ブラフマンと出会い、
 自室に飼い始める。
「碑文彫刻師」
…石碑に墓碑銘を刻む職人。
 「創作者の家」で仕事をしている。
「雑貨屋」
…雑貨屋の主人。
 「創作者の家」を定期的に訪れる。
「娘」
…雑貨屋の娘。「僕」が想いを寄せる。
「レース編み作家」
…「創作者の家」に寄宿した
 レース編み作家の老婦人。
「ホルン奏者」
…「創作者の家」に寄宿したホルン奏者。
「泉泥棒」
…地下水脈を変えようとした
 二人組の男。

本作品の味わいどころ①
想像をかき立てるブラフマン

最初は犬かと思いました。
捨て犬か迷子の犬を
「僕」が拾ったのだろうと。
しかしそうではないことに
すぐ気づかされます。
水かきとひげを持っている、
部屋中のいろいろなものを噛み続ける、
尻尾は胴の1.2倍に達する、
そのような犬などいないはずです。

作者は一切、
「ブラフマン」と名付けられた
その小動物の正体を
明らかにしていません。
しかし読み進めると、
正体など些細に思えてきます。
細やかな描写が、
ブラフマンと「僕」との関係性を
余すところなく
読み手に伝えているからです。
ミルクを飲み始めたときの喜び、
ベッドの中で一緒に眠りにつく安らぎ、
根気よくトイレのルールを
教えようとする奮闘ぶり、
「僕」のすねにまとわりつく無邪気さ、
それらが読み手の脳内に、
鮮明な映像を結んでいくのです。
この、読み手の想像をかき立てる
小動物ブラフマンの愛らしい生態こそ、
本作品の第一の味わいどころなのです。
しっかりと味わいましょう。

本作品の味わいどころ②
どことも知れぬ村と人間たち

正体不明なのは
ブラフマンだけではありません。
舞台となっている村も
どこなのかわからないのです。
地名は一切登場しません。
「村の中心から車で南へ
十分ほど走った、田園の中」、
「山は緑の乏しい岩山」などの
記述があるのですが、
日本なのか海外のどこかなのか
わかりません。
印象としては
日本ではない可能性の方が高そうです。

時代も不明です。
「鉄道が敷かれる以前、
つい五十年ほど前までは、
船で川を下ってくる以外、
村に入る交通手段はなかった」と
ありますので、もしかしたら
現代ではないのかもしれません。

そして登場人物たちも
よくわからないのです。
名前は一切与えられていません。
すべて職業名で語られます。
その職業名も
怪しいものがいくつか見られます。
「碑文彫刻師」「レース編み作家」なる
職業が存在するのか?
そもそも「僕」の管理する
「創作者の家」なるものも、
ありそうな、なさそうな、
不思議な設定です。

だからこそ、想像の余地が
大きく広がっているのです。
おそらく読み手それぞれの
嗜好や経験値によって、
一人一人のイメージする風景は
異なってくるのではないかと
思うのです。
この、どことも知れぬ時代の村に生きる
人間たちを想像することこそ、
本作品の第二の
味わいどころとなるのです。
じっくりと味わいましょう。

本作品の味わいどころ③
想いを明かさない語り手「僕」

さらにわからないのは、
語り手「僕」の心の内です。
ブラフマンと心の交流ができているのは
理解できます。
「娘」に想いを寄せているのも
わかります。
しかし「僕」がその気持ちを
ストレートに表現している部分は
ほとんどないのです。
したがって感情移入は困難です。

それだけでなく、
「僕」の過去も明かされません。
なぜ「創作者の家」の管理人に
なったかの経緯も語られません。
「僕」とはどんな人物なのか
特定する情報は皆無なのです。

だからこそ、
「誰でもありうる」といえます。
そこからやはり想像を広げることが
可能となるのです。
この、想いを明かさない語り手
「僕」から想像の翼を広げることこそ、
本作品の第三の
味わいどころとなっているのです。
たっぷりと味わいましょう。

大きな展開の変化もないまま、
「僕」はあっけない形で
ブラフマンを失うことになります。
表題は「ブラフマンの埋葬」。
「僕」がブラフマンの遺体とともに
埋葬したのはいったい何だったのか?
その点も想像が広がります。

小川洋子の創り上げたこの作品世界、
いつの時代のどこの物語か、
その正体は
このようにまったくわかりません。
しかしSFやメルヘンのような
「異世界」ではないのです。
きわめて現実に近く、そして
居心地のよい不思議な世界なのです。
素敵な逸品、ぜひご賞味ください。

(2025.12.17)

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