「冥途」(内田百閒)

似たような夢を見ている百閒と私の違い

「冥途」(内田百閒)
(「冥途・旅順入城式」
)岩波文庫

「私」は一膳飯屋の席に腰を掛け、
何も食ってはいなかった。
ただ何となく人の懐かしさが
身に沁むような心持ちでいた。
「私」の隣席に座った
四、五人連れの客の
一人の声を聞いた「私」は、
何とも知れず
なつかしさが込み上げてきた…。

前回取り上げた「件」は、
実はこの短編集「冥途」の中の一編です。
タイトルをいくつか拾い上げると
「烏」「木霊」「蜥蜴」「疱瘡神」「豹」と、
ハーンの「怪談」を連想させるのですが、
どれもこれも「件」同様、
語り手の直面する困難や恐怖は、
読み手には感じられません。
怪談集ではなく、
あくまでも夢物語集なのです。

ところで、私は夢をよく見ます。
そして、目が覚めてから
自分の見た夢を
反芻するくせがあります。
ところが私の女房は
夢を見ないと言います。
周囲に聞いてもやはり、
夢を見てそれを
きちんと記憶している人と、
夢をほとんど見ない
(もしくは見ているが
記憶していない)人とがいるのです。

おそらく内田百閒もまた、
夢をよく見て、
その夢を記憶しておくタイプの
人間だと思います。
私のよく見る夢に似た部分が
数多く登場するからです。

冒頭に載せた「冥途」ですが、
隣席の客の一人の声は、
「私」の父親の声であることに
気付きます。
振り向くとそこにはもう父の姿はなく、
ただ声だけが耳に残る。
私もこのような形で
亡くなった父の夢を見ることが
たびたびあります。

豹を入れた檻の格子が
一本抜けていることに気付いた「私」。
豹は檻を抜け、
「私」を喰いにくる。(「豹」)
こんなふうに猛獣や化け物に
追い立てられる夢は私も見ます。
起きると寝汗びっしょり。
あれは何の暗示だったのか、
自分は現実世界で何に
追い立てられているのか考え出すと、
そこから眠れなくなります。

風の強い日、「私」の目の前を
老婆と若い女の子が通り過ぎた。
「私」は二人の距離が
離れたところを見はからって
女の子と手を繋いだ。
ふと振り向くと、
「私」が手を引いていたのは
老婆だった。(「柳藻」)
若い女性と一緒にいたはずなのに、
気付いたら
年寄りや男に変わっていたという夢を、
見るたびに私は
悔しい思いをしています。
せっかくいいところだったのに、と。

似たような夢を見ている
百閒と私の違いは
(比較などおこがましい限りですが)、
見た夢を記憶に留めておくだけか、
作品まで昇華させるかなのでしょう。

夏目漱石「夢十夜」とも
比較されることの多い本作品。
私はむしろ稲垣足穂の「一千一秒物語」、
安部公房の「笑う月」に
近いものを感じました。

※参考までに収録作品名一覧を。
 「花火」
 「山東京伝」
 「尽頭子」
 「烏」
 「件」
 「木霊」
 「流木」
 「蜥蜴」
 「道連」
 「柳藻」
 「志那人」
 「短夜」
 「石畳」
 「疱瘡神」
 「白子」
 「波止場」
 「豹」
 「冥途」

(2020.5.21)

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