「華々しき瞬間」(久坂葉子)

死へと向かう久坂の「走死性」がここにも見られる

「華々しき瞬間」(久坂葉子)
(「久坂葉子作品集 女」)六興出版

「阿難」という別人格を心の中に
植え付けている南原杉子は、
行きつけの喫茶店の
経営者・蓬莱和子に惹かれる。
そして和子の知人であり
妻子のある仁科六郎に
阿難として、
さらには和子の夫・建介には
杉子として、
関係を持っていく…。

簡単に言うと不倫物語です。
それも二重不倫物語。
昼メロになりそうな素材ですが、
ドラマになどできそうにもありません。
杉子は二人の妻子ある男性と
関係を持ちながら、
そのどちらへも愛情を持つことが
できないのですから。

正確な説明が難しいのですが、
仁科と関係しているのは阿難であり、
阿難は仁科を愛しているものの
杉子は何も感じていません。
一方で杉子の肉体は
健介を求めているのです。
そして杉子の心は
和子へと向いているのです。

二重人格とも異なります。
阿難は杉子の心の中にある
対極の自分などではなく、
杉子自身が創り上げた人格です。
結婚に対して
前向きな希望を見いだせない
杉子に代わって、
男性を受け入れるための
心のアナザー・スペースの
ようなものなのです。
杉子の意図と逆らって
阿南が表面に現れるわけでは
ありません。

杉子は意図的に阿難の存在を
コントロールできているのです。
むしろ都合良く杉子自身と阿難を
使い分けているように感じられます。
しかし次第に
阿難の存在が増していくのです。

杉子は蓬莱・仁科両夫妻から
ホーム・パーティに招かれます。
妻には杉子との関係を隠している健介、
仁科との関係は承知しているものの
夫との関係はないと確信している和子、
このような場に招待された
阿難の苦しさを思いやる六郎、
夫との関係をまったく知らずに
杉子との対面を楽しみにしている
六郎の妻・たか子の
四人の真理が交錯します。

複雑なシチュエーションですが、
これは同時に三人の男性と
関係を続けていた
生前の作者の実生活に
極めて近いものなのでしょう。
阿難=杉子=久坂葉子なのだと
思われます。

その緊張感漲る場で
六郎の思いを感じた杉子いや阿難は
「阿難は生きてゆけません。
 一生、こんな大きな幸福の、
 華々しい瞬間は、
 もうございませんもの。
 阿難、とあなたの声。
 阿難の幸福の瞬間、
 華々しい瞬間が」

「死」へと向かう久坂の「走死性」が
ここにも見られます。
久坂葉子の魂の破片ともいえる、
彼女の最長の作品にして
最大の問題作です。

(2020.8.13)

※本書は絶版中。
 青空文庫で読めます。

【青空文庫】
「華々しき瞬間」(久坂葉子)

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