「水仙」(太宰治)②

なぜ「読者の推量にまかせ」たのか

「水仙」(太宰治)
(「きりぎりす」)新潮文庫

前回取り上げた太宰「水仙」
やはり太宰は
終末で仕掛けを施しています。
「水仙の絵は、断じて、
 つまらない絵ではなかった。
 美事だった。
 なぜそれを僕が引き裂いたのか。
 それは読者の推量にまかせる。
 静子夫人は、
 草田氏の手許に引きとられ、
 そのとしの暮に自殺した。
 僕の不安は増大する一方である。
 なんだか天才の絵のようだ。」

静子の絵が
「見事だった」にもかかわらず、
なぜ「僕」はそれを引き裂いたのか。
もちろん、静子の絵の痕跡を
全て消すために違いありませんから、
それはなぜかということになります。
「読者の推量にまかせ」たのですから、
考える余地は大きいと思います。

推論①静子を追い詰めたのが
自分であることを隠すため。

「画を、お見せしましょうか。」と
持ちかけた静子に対して
「たくさんです。
たいていわかっています」と
つれない態度です。
「あの人をこっぴどくやっつけた
男というのは僕です。」と
認めているように、
「僕」は静子を打ちのめしていたのです。
これはもう、
三年前の正月に貶されたことに対する
遺恨以外の何物でもないのです。
それを隠して、正当化しようとする
行為に思えなくもありません。

推論②静子を追い詰めた
芸術に対する怒り。

芸術が存在しなければ
静子は死ぬことはなかったのです
(もっとも芸術によって、
生家が落ちぶれたことに対して
自尊心を取り戻す
きっかけになったのですが)。
そうした芸術に対する怒りを
発散した行為とも考えられます。

推論③「二十世紀には、
芸術家も天才もないんです」の
持論を保持するため。

「僕」は自分の文筆家としての才能に
悲観的なのです。
だから「二十世紀には無理なのだ」と
諦観しているのです。
でもそれは
自分の才能のなさを棚に上げ、
時代のせいにしていると考えられます。
そうした自己保身のための
取り繕いとも思えるのです。

私は③の線が濃いように思えます。
そして、二十世紀の芸術家は
己の芸術性を確かめる術を持たず、
忠直卿のように
自己不信に陥るしかないのだと。
それを印象づけるように、
静子が自殺したことを、
最後の三行に書き記しています。
あたかも後の太宰自身を
暗示しているかのようです。
「読者の推量にまかせ」たのは、
そうした己の不安を、
読み手に気付かせるための
シグナルのような気がしてなりません。
太宰は意図的に静子を忠直卿に見立て、
そして同時に、
無意識に自身を静子に見立てて
いたのではないかと思うのです。

(2021.7.17)

Juni KangによるPixabayからの画像
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