花魁・吉里の哀しい「すれ違い」
「今戸心中」(広津柳浪)
(「百年文庫019 里」)ポプラ社

惚れていた平田が
郷里へ帰ることになり、
二度と会えないと知った吉里は
激しく動揺する。そして
足繁く通ってくる善吉もまた
「今日が最後だ」という。
身代を潰したのだという。
善吉を避けていた吉里は、
初めて彼の気持ちに気づき…。
広津柳浪の代表作である、
明治の時代の遊郭の物語です。
ほれ合う男女が一緒になれない
遊郭物語はいくつもあれど、
本作品の主人公・吉里の場合は、
「すれ違い」の物語といえるでしょう。
〔主要登場人物〕
吉里
…二十二三の花魁。惚れている平田に
気持ちを表せないまま、
別れの日を迎える。
善吉を嫌って避けていた。
お熊
…吉里についている新造。
吉里とたびたび言い争いをしている。
小万
…吉里より二三年上のお職女郎。
吉里に親切にする。
お梅
…小万についている新造。
平田
…二十六七。郷里岡山へと帰る。
西宮
…平田の親友。三十二三。小萬の客。
善吉
…美濃屋の当主。
花魁通いの末に身代を潰す。
四十くらい。吉里に惚れている。
本作品の味わいどころ①
吉里と平田のすれ違い
平田の前で素直になれない吉里の姿が
いじらしくもあり哀しくもあります。
態度はたとえそうであっても、
心は違うのです。
「死んでも平田さんと
夫婦にならないじゃおかない。
自由にならない身の上だし、
自由に行かれない身の上だし、
心ばかりは平田さんの傍を放れない。
どんなことがあッても
平田さんの傍は放れない。
体は吉原にいても、
心は岡山の平田さんの
傍にいるんだ」。
吉里は感情の起伏が激しく、
自分の気持ちを制御できていません。
精神的な幼さといえばそれまでですが、
嘘偽りのない、
真っ正直な人柄だと感じます。
相手の気持ちや周囲の状況を察して、
上手に立ち回ることなど
できない性格なのでしょう。
平田もまた、寡黙な青年であり、
ただ静かに先輩・西宮と
酒を酌み交わすだけなのです。
吉里と平田は、だからこそ、
すれ違う運命にあったのでしょう。
本作品の味わいどころ②
吉里と善吉のすれ違い
若くて男前の平田に対して、
善吉は容姿としては
明らかに見劣りがします。
「年は四十ばかりで、
軽からぬ痘痕があッて、
口つき鼻つきは尋常であるが、
左の眼蓋に眼張のような疵があり、
見たところの下品小柄の
男」なのですから。
平田に惚れている吉里の眼中に、
善吉が入らなくとも
仕方がないといえます。
身代を潰して今夜限り来ることは
ないという善吉の身の上を聞き、
吉里は態度を一転させます。
仲間の花魁たちから借財までして、
善吉を招き入れるのです。
平田から善吉に乗り換えた、
などというものでないことは確かです。
平田と別れざるを得なかった
自身の心境を善吉のそれと重ね合わせ、
善吉に施すことによって
自身の心の空白を埋め合わせて
いるように思えてなりません。
それはおそらく愛情ではなく
同情に過ぎないのでしょう。
吉里と善吉は、それ故に、
重なり合うことなく
すれ違う運命にあるのです。
本作品の味わいどころ③
吉里と「幸せ」とのすれ違い
そして最後は
表題通りの「心中」となるのです。
しかし彼女は一体誰と心中したのか?
状況的にはその相手は
善吉以外にはあり得ません。
しかし文章中には「誰と」について
一切書かれていないのです。
小万にあてた遺書めいた手紙にも
善吉の名は記されていません。
そしてその手紙とともに
挟まれていたのは
「平田と吉里のを表と表と合わせて、
裏には心という字を大きく書き、
捻紙にて十文字に絡げてあ」る
一対の写真なのです。
彼女の身は善吉とともに心中し、
彼女の心は平田への思いに
殉じたのでしょう。
「心中」の中でも
ひときわ哀しい心中なのです。
彼女は結局「何と」すれ違っていたのか?
「幸せ」と寸分も重なることなく
すれ違っていたのです。
さて、作者の広津柳浪。
1861年生まれの作家であり、
当サイトで取り上げた作家では
森鷗外(1962)より一年年上であり、
福沢諭吉(1935)、
呉文聡(1951)に次ぐ年代です。
本作「今戸心中」が代表作ですが、
ほかにも「河内屋」「黒蜴蜒」など、
味わい深い名作を残しています。
明治の時代の作家でありながら、
作品は口語体で書かれてあり、
鷗外や露伴の初期作品に比べても
格段に読みやすく仕上がっています。
明治29年に発表された「今戸心中」、
ぜひご賞味ください。
〔青空文庫〕
「今戸心中」(広津柳浪)
〔「百年文庫019 里」収録作品〕
朴歯の下駄 小山清
罪な女 藤原審爾
今戸心中 広津柳浪
※本アンソロジーのテーマ「里」は、
古「里」(ふるさと)ではなく
遊「里」なのでした。
三作とも遊郭にまつわる物語です。
(2023.4.12)

【広津柳浪の作品】
どちらも岩波文庫から出版され、
現在絶版中です。
「今戸心中 他二篇」
「河内屋/黒蜴蜒 他一篇」
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