「幸福」(安岡章太郎)

「僕」が「幸福」と捉えているものは

「幸福」(安岡章太郎)
(「教科書名短篇 家族の時間」)
 中公文庫

「教科書名短篇 家族の時間」

ぶっきらぼうな駅員が
差し出したおつりは、
十円紙幣と勘違いしたのか、
五円多いものだった。
浮いた五円の使い道を
空想していた「僕」は、
駅員が苦労している身の上を
さらに空想してしまう。
「僕」は窓口に戻り、
駅員に五円札を…。

もしかしたら中学校の国語の教科書で
読んだ方が多いのではないかと
思われます。
この安岡章太郎の「幸福」、
これまで手頃な文庫本には
収録されておらず、この本書
「教科書名短篇 家族の時間」で
ようやく読むことができました。

S駅駅員は「僕」の払った五円札を
十円札と勘違いし、
五円余分に釣り銭を渡す。
「僕」はそれを受け取り、
どのようにして使うか「空想」する。
途中駅で自分より年下と思われる
駅員の姿を見て、
S駅駅員の身の上を「空想」する。
駅に引き返し、
S駅駅員に五円札を返却する。
駅員は笑顔で「僕」に感謝する。
帰宅し、
その顛末を得意げに母親に話す。
しかし「僕」が支払ったのは実は…。
という粗筋なのです。
ほのぼのとした内容であり、
最後のどんでん返しのような展開も
面白さに溢れ、
授業そのものの印象は
完璧に消え去っても、
その味わいだけは不思議と
記憶に残っている、
強烈な存在感の作品です。

大人になって再読すると、
その記憶の一部が間違っていたことに
気づかされました。
忘却していたのは
「あれから、もう三十年近くたつ。」の
一文と、
そこから始まる最後の一節です。

私は本作品時代背景を、
昭和30年代の高度成長期開始前後の
あたりのように捉えていました。
そうではありません。
戦前のようです。
本作品の初掲載が1967年。
本作品の最後にあるように
「あれから、もう三十年近く
たつ」のであれば
(回想しているのが1967年現在という
設定であるものとして)、作
品の舞台は1937年(昭和12年)
前後ということになります。
戦争の影が忍び寄っていた頃であり、
庶民の生活も
貧しかった時代であるといえます。
だとすれば、五円札の重みも
これまでの印象以上のものであり、
また、終末に記されている、
「僕」が夜遅くにS駅まで
再度走らされる理由もわかります。

また、私は主人公「僕」を、
10歳かそこらの少年だと
思い込んでいましたが、本文には
「中学の四年生か五年生のとき」と
記されています。
昭和12年前後であれば
旧制中学ですから、
その年齢は15~17歳、現在の
高校1、2年生ということなのです。
したがって途中駅での年下に見えた
私鉄の駅員は14~16歳程度で
すでに働いていたのであり
(当時は珍しくはなかったはず)、
それが「僕」に後ろめたさを
思い起こさせた
理由となっていることがわかります。

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こうして再読すると、「あれから、
もう三十年近くたつ。」からの一節は、
芥川龍之介「トロッコ」の終末と
よく似ています。
蛇足のような一節に見えて、その実、
作品の本質が潜んでいると
考えられるのです。

主人公「僕」は、
三十年前の出来事を振り返るとともに、
それ以後の人生でも
「考えられないマヌケなことを
仕出か」していることを明かします。
そしてこうも振り返っているのです。
「この空想癖がなかったとしたら、
 僕はいまより一層
 どうしようもなく
 とりえのない人間になっていたかも
 知れない」

ぶっきらぼうな駅員が
見せた笑顔に対し、
「あの笑顔を見ることの幸福は、
五円札では買えないものだ」と
述懐していることから付された表題
「幸福」なのでしょうが、
「僕」は自身が「空想癖を持って
生まれたこと」をもって
「幸福」を感じているのは確かです。

おそらく「僕」=安岡自身なのでしょう。
安岡は自身の空想癖が
作家としての活動の源泉と
なっていることを自覚するとともに、
それを「僕」に仮託し、
語らせているとも推察できます。

中学生だった頃には「教科書なんて」と
思っていたのですが、
大人になって振り返ると、
教科書がいかに素晴らしいもので
あるかが理解できます。本作品も
深い味わいを持った作品であり、
一生の中で繰り返し読むに
値するものです。
ぜひご賞味あれ。

〔本書収録作品一覧〕
あとみよそわか 幸田文
うずまき 幸田文
トロッコ 芥川龍之介
尋三の春 木山捷平
黒い御飯 永井龍男
輪唱 梅崎春生
ひばりの子 庄野潤三
子供のいる駅 黒井千次
握手 井上ひさし
小さな手袋 内海隆一郎
ふたつの悲しみ 杉山龍丸
幸福 安岡章太郎
おふくろの筆法 三浦哲郎
私が哀号と呟くとき 五木寛之
字のない葉書 向田邦子
ごはん 向田邦子

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