
危険な自由人、その名はドン・ジュアン
「ドン・ジュアン」
(モリエール/鈴木力衛訳)岩波文庫
希代の女たらしドン・ジュアンは、
狙いをつけていた娘を
たぶらかすことに失敗し、
その後に出会った田舎娘二人も
口説き落とせず、
気が立っていた。
そんな折、半年前に落命させた
騎士の墓が近くにあると聞き、
騎士像を晩餐に招く…。
女たらしの貴族が殺害した騎士像を
晩餐に招くという筋書き、そして
「もしくは、石像の宴」の副題が
表すように、本作品は欧州の
「ドン・ファン」伝説を素材とした作品群の
一つです。
「ドン・ファン」ものとしては
文学作品以上に、
モーツァルトのオペラ
「ドン・ジョヴァンニ」が
最も有名でしょう。
筋書きの主要部分はほとんど同じです。
しかし本作品の味わいどころはずばり、
主人公ドン・ジュアンの人物像です。
〔主要登場人物〕
ドン・ジュアン
…女たらしの貴族。
妻がありながら、浮気の旅に出る。
スガナレル
…ドン・ジュアンの従僕。
ドン・ジュアンをことあるごとに
諫める。
エルヴィール
…ドン・ジュアンの妻。
ドン・ジュアンにそそのかされ、
修道院を抜け出して結婚した。
ギュスマン
…エルヴィールの供まわり。
ドン・カルロス
…エルヴィールの兄。
盗賊に襲われていたところを
ドン・ジュアンに救われる。
ドン・アロンス
…エルヴィールの兄。
ドン・カルロスの弟。兄弟で
ドン・ジュアンを討ち果たそうとする。
ドン・ルイ
…ドン・ジュアンの父親。
息子の非行を嘆く。
シャルロット、マチュリーヌ
…田舎娘。ドン・ジュアンが目をつける。
ディマンシュ氏
…商人。
ドン・ジュアンに金を貸している。
騎士の像
…半年前にドン・ジュアンに殺害された
騎士の像。亡霊として動き出す。
本作品の味わいどころ①
自分の心に正直なドン・ジュアン
「悪人」と一言で片付けても
問題ない人物ドン・ジュアンですが、
あえて「魅力」を探すとすれば、
一つは自分の心に
正直であるということでしょうか
(正確には「自分の心だけに正直」と
いうべきなのですが)。
彼は他人の気持ちなど
まったく考えていません。
妻のエルヴィールが旅先に訪れても、
おためごかしの言い訳を
するわけではありません。
「あなたから逃げ出したいばっかりに
旅を出た」と、
包み隠さず話すのです。
それがいいか悪いかは別問題として、
ドン・ジュアンは
万事この調子なのです。
この、心のおもむくままに生きる
主人公の人物設定こそ、
本作品の第一の味わいどころなのです。
本作品の味わいどころ②
騎士道精神発揮のドン・ジュアン
「悪人」であることに
間違いはないのですが、
卑怯者ではなさそうです。
無法者に襲われていた
ドン・カルロスに助太刀し、
命を助けるという義侠心も
発揮しているのです。
そのドン・カルロスは、
弟ドン・アロンスとともに、
自らの命を狙っていることを知っても、
それに言い訳しようとはせず、
果たし合いには応じているのです。
この、騎士としての誇りだけは失わない
主人公の性格設定こそ、
本作品の第二の
味わいどころとなるのです。
本作品の味わいどころ③
神も恐れぬ強気のドン・ジュアン
さらに彼は
何者をも恐れることがありません。
口説き落とそうとした
シャルロットとマチュリーヌが
鉢合わせしても慌てることなく対処し、
カルロスとアロンスの兄弟が
決闘を申し出ても
うろたえることなく切り抜け、
石像が自宅を訪れても
怯えることなく
石像宅に招かれることを承知し、
強気の行動でつき進んでいるのです。
悪人でありながら、
小気味よいばかりの姿です。
この、神をも恐れぬ強気一篇の
主人公の行動美学こそ、
本作品の第三の
味わいどころとなっているのです。
とはいえ、やはり悪人です。
数多くの女性を泣かせ、
たてつく男を殺害しているのですから。
そうなると、
ドン・ジュアンという人間を
脳内に再現しようとしたとき、
その姿がなかなか像を
明確に結ばないのです。
善人とは言いがたいが、
単なる悪人でもない。
自らの心に正直でありながら、
他人には平気で嘘をつく。
弱者を助ける義侠心を持ちながら、
偽善者に対しては嫌悪の情を隠さない。
正々堂々と決闘を受ける
騎士道精神を持ちながら、
多くの女性をもてあぞぶ。
理解が難しいのです。
ドン・ジュアンの人間性を
無理に一言で言い表すならば、
「危険な自由人」ということに
なるのかもしれません。
社会の常識や秩序、
宗教や神の存在にまったく縛られず、
自分の内なる美学にのみ従う
自由な人間、
しかしそれは社会において
きわめて危険な存在と
考えられるのです。
作者モリエールが、
どのような意図でドン・ファン伝説から
そのような人物を作り出したのか、
それこそが本作品の
もっとも大きな味わいどころと
いえるのかもしれません。
ぜひご賞味ください。
(2026.1.12)
〔「ドン・ファン伝説」から生まれた作品〕
本作品以外にも、
「ドン・ファン伝説」から生まれた作品が
いくつかあります。
時系列に並べてみます。
①ティルソ・デ・モリーナ
「セビーリャの色事師と石の客」
(1630年頃)
ドン・ファン伝説の最初の本格的な
文学化作品です。
放蕩者貴族が女性を弄び、
最後に「石像」によって
地獄へ引きずられるという基本構造が
ここで確立しました。
モリエールもこの作品を
下敷きにしています。
岩波文庫から刊行されていましたが、
現在は流通していません。
②(本作品)モリエール
「ドン・ジュアン」(1665年)
③カルデロン「石の客」
この作品については
日本語訳がなされていないようです。
それ以前に、
カルデロンなる作者の作品が、
日本では
ほとんど知られていないようです。
④ベルターティ「ドン・ジョヴァンニ」
(1787年)
⑤ダ・ポンテ「ドン・ジョヴァンニ」
(1787年)
こちらは文学作品ではなく、
オペラの台本です。
有名なモーツァルト作品は
⑤の方ですが、それよりやや早く
ガッツァニーガという作曲家が、
④の台本を用いて
「ドン・ジョヴァンニ」を
創り上げています。
モーツァルト作品が有名になりすぎて、
ガッツァニーガ作品は
ほとんど知られないままとなりました。
しかしダ・ポンテもモーツァルトも
ガッツァニーガ版に
触発されてつくったのであり、
現代であれば「パクリ」と言われても
仕方ないものではあります。
⑥バイロン「ドン・ジュアン」
(1824年)
伝説の大胆な
転倒となっている作品です。
ドン・ジュアンは「女たらし」ではなく、
女性に誘惑される純真な青年として
描かれているらしいのですから
驚きです。
単行本上下巻となる大作です。
⑦プーシキン「石の客」(1830年)
ロシア文学による
ドン・ファンの再解釈です。
ドン・ファンとドンナ・アンナの
心理的緊張に焦点を当てた
作品なのだそうです。
こちらは日本語訳が見つかりません。
⑧ホセ・ソリーリャ
「ドン・ファン・テノリオ」(1844年)
スペインで最も愛される
ドン・ファン劇。
最後にドン・フアンが悔い改め、
救済されるというロマン主義的な
救いの物語であるのが異色。
「ドン・ファン・テノリオ」岩波文庫
⑨キルケゴール「誘惑者の日記」
(1843年)
哲学的な変奏といわれています。
「誘惑者ヨハネス」を通して、
ドン・ファン像を美的実存の象徴として
分析したもののようです。
文学作品というより
思想的展開といわれ、
毛色の異なる作品のようです。
⑩A.K.トルストイ「ドン・ジュアン」
(1850~1860年代頃)
「石像が現れ、罰が下る」構造を
踏襲していない作品。
代わりにドン・ジュアンの内面の葛藤、
女性への憧れ、愛による救済などが
テーマとなっているのだとか。
岩波文庫から
出版されていたようですが、
現在は流通していません。
「ドン・ジュアン」岩波文庫
これだけ形を変えて
創作されるのですから、
西洋人にとっての「ドン・ファン伝説」が
いかに大きなものだったか
想像されます。
〔関連記事:モリエール作品〕
「人間ぎらい」(モリエール)
〔関連記事:「ドン・ジョヴァンニ」〕



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