「トニオ・クレエゲル」(マン)

「芸術家」と「市民」、その境界に立つトニオの苦悩

「トニオ・クレエゲル」
(マン/実吉捷郎訳)岩波文庫

文学的趣味を持つ
トニオ・クレエゲルは、
同級生たちの間では
浮いた存在となっていた。
十三歳のとき、
友人ハンスと一緒に散歩するが、
互いの性格の違いを痛感し、
憂鬱になる。
十六歳のとき、
少女インゲに想いを寄せるが、
やはり…。

近年ではより原語の発音に近い
「トーニオ・クレーガー」と
表記されることの多い作品です。
私のような
昭和生まれの人間にとっては、
この実吉捷郎訳の「クレエゲル」の方が、
北ドイツ的な硬めの情緒や
古き良き教養主義的肌触りを
感じてしまいます
(「クレーガー」だとどうしても
アメリカ人をイメージしてしまう)。
本作品、筋書きの起伏で読ませるような
小説ではありません。
悩める主人公トニオ・クレエゲルの
内面を味わう作品なのです。

〔主要登場人物〕
トニオ・クレエゲル

…商家の息子。
 のちに詩人として名を成す。
ハンス・ハンゼン
…トニオが十三歳のときの友人。
エルウィン・インメルタアル
…ハンスの友人。
インゲボルグ・ホルム
…トニオが十六歳のときに恋した少女。
マグダレエナ・フェルメエレン
…トニオに好意を持って接する少女。
リザベタ・イワノヴナ
…画家。トニオ三十歳のときの女友達。
アダルベルト…小説家。

本作品の味わいどころ①
芸術家としての孤高の精神

本作品の最初に描かれるのは、
トニオ十三歳の出来事。
好意を寄せている友だちハンスと
二人きりで散歩しながらの帰り道、
途中でエルウィンが
割り込んできた場面です。
ハンスを独占したいという想い、
トニオとの仲を
他には知られたくないという
ハンスのふるまいに傷つく心、
そしてハンスやエルウィンのようには
なれないという諦めの気持ち、
そうした複雑な心理が
丁寧に描かれているのです。
十三歳ですでに詩を書き、
俗世に背を向けていた彼にとって、
その孤高な精神は
自身を傷つける刃として
作用していたのでしょう。
それは十六歳での初恋、
そして自立し、三十歳になって
再び故郷を訪れる場面でも
変わることはありません。

本作品の味わいどころ②
「市民的な健全さ」への憧憬

本作品発表当時の文学界(芸術界)では、
芸術家は
「病的なもの」「異常なもの」を嗜好し、
日常的な道徳から逸脱することに
価値を置く風潮がありました。
いわゆる「デカダンス」です。
もしトニオが「デカダンス」に溺れ、
一般市民を見下していたなら、
彼は苦悩を感じることなく
芸術に邁進できたのでしょう。
しかし彼は、芸術家でありながら
心の底では
「普通であること」「善良であること」を
美徳として愛していたのです。
自らの鋭すぎる感性を
「高い能力」「希有な資質」として
とらえるのではなく、
「罪」や「欠陥」のように
感じているのです。
そこに彼の苦悩の根源があるのです。

トニオは、
芸術家が優れた作品を作るためには、
人間らしい感情に溺れず、
冷徹な「観察者」でいなければならない
(=人間を解剖の対象にする)という
冷酷な真理に気づいてしまいます。
しかし、彼は
その冷たさに安住できませんでした。
彼は、ハンスやインゲボルクのような
「何も考えずに人生を謳歌している
人々」の高揚感を、
自分も味わいたいと
願ってやまないのです。
「理解する者(芸術家)」でありながら
「愛する者(普通の人間)」で
あり続けようとしたことが、
彼の葛藤を永続させました。

本作品の味わいどころ③
所属先を持たない者の不安

結果、彼は芸術家からは距離を置かれ
(リザベタから「俗人」と呼ばれる)、
かといって一般市民の中にも溶け込めず
(十数年ぶりに再会した
ハンスとインゲに声をかけることすら
できなかった)、
蝙蝠のような中途半端な存在に
甘んじるしかなかったのです。

実は本作品、作者マン
自伝的小説と言われています。
マン自身がそのような魂を抱えて
苦悩していたのです。
世紀末を過ぎ、
二十世紀という新しい時代に入り、
芸術家のデカダンス的生き方は
次第にはやらなくなったという
背景もあったのでしょう。
作品の終末、トニオがリザベタに
宛てた手紙の中の一文
「僕は二つの世界の間に介在して、
 そのいずれにも安住していません。
 だからその結果として、
 多少生活が厄介です」
は、
そのままマンの心の声の
表出とみていいでしょう。

SNSで広く薄くつながることに
慣れてしまった
現代の世情を考えたとき、
本作品は理解の難しい小説に
なりつつあるのかもしれません。
しかし二十世紀初頭のドイツへと
時空間を飛び越えたところで
味わったとき、
本作品から滲み出る文学的エキスには、
現代作品では絶対に味わえない
妙味を感じること間違いなしです。
ぜひ「トーニオ・クレーガー」ではなく
「トニオ・クレエゲル」をご賞味ください。

〔現代的視点での別の切り口〕
現代に引き寄せて(本来はそうした
読み方はふさわしくないのですが)
トニオ・クレエゲルという人物を
観察したとき、
「自閉スペクトラム症」(ASD)の要素が
色濃く見受けられます。
トニオの苦悩を
「板挟み」という社会的な構造だけでなく
「世界をどう知覚しているか」という
根本的な認知の差として捉えたとき、
本作品はまた違った形の
「人間の苦悩」を提示してくるのです。

トニオが最後に辿り着いた
「それでもなお人間的なものを
愛する」という決意は、
マジョリティの感性に馴染めない
マイノリティが、
いかにしてこの世界と折り合いをつけ、
自分だけの愛の形を見出すかという
「自己肯定の物語」として
読み解くことができそうです。
本作品を読んだ心療内科医が
どのように分析するのか、
意見を聞いてみたいところです。

今日のまとめ

(2026.4.1)

〔関連記事:ドイツ語による文学作品〕

「アウグスツス」
「石乳」
「人形使いのポーレ」

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