「すきまのおともだちたち」(江國香織)①

書かれてあることをあるがまま受け止めるべき小説

「すきまのおともだちたち」
(江國香織)集英社文庫

新聞記者である「私」は、
仕事で訪れた町で道に迷い、
見覚えのない
不思議な世界へ入りこむ。
そこで「私」は小さな女の子に
「お客」としてもてなされる。
意志を持ったお皿が車を運転し、
風呂敷の老夫婦が
歌を聴きにくる…。

異世界へと
次元スリップする小説なら、
SFを探せばいくらでもあるでしょう。
でも「SFっぽさ」はありません。
本作品に現れる異世界「すきま」は、
他のそれとは少しばかり違っています。
実は分からないことだらけなのです。

①「すきま」では何が当たり前で
 何が当たり前でないのかわからない

女の子は「私」を車に乗せて
自宅まで案内するのですが、
女の子は運転しません。
「あたしは小さな女の子なのよ」。
で、運転するのが「お皿」。
「彼女はじゅうぶんなだけ
年をとっているから」。
車の運転で大切なのは
「一定の年齢に
達していること」であって、
人か物かは関係がないのです。

②「すきま」では時間が流れているのか
 流れていないのかわからない

女の子はいつまでも
女の子のままで成長しないのです。
「私」は現実世界で歳をとり、
「すきま」に落ちるごとに
女の子と年の差が大きくなります。
そうかと思えば、お皿は
「割れたり、縁が欠けたり」しながら
70年持ちこたえた、と述懐します。

③「すきま」では固有名詞が
 存在するのかしないのかわからない

女の子は女の子、お皿はお皿、
ミミズはミミズ、
そして「私」は「お客」となり、
固有名詞を持たない世界です。
でも例外なのか「私」については、
女の子は
「ミス郵便局」と「ミセス緑の靴」の
固有名詞(的な呼び名)を
付けているのです。

そして本作品の舞台である
「すきま」だけでなく、
作品構造にも他のSF作品と
異なる面が見られます。
それは、「すきま」から戻った「私」は
現実世界に何も還元しない、
ということです。
異世界での体験を通して
主人公が成長し、
現実での生活が充実したものになる、
という押しつけがましい
教訓のようなものは一切見られません。
「私」はただ「すきま」に落ち、
ただ戻ってきたのです。

「すきま」に統一した世界観がなく、
作品自体にも
読み手に強く訴えようとする部分など
微塵もありません。
「すきま」が物事をあるがまま
受け止める世界であるのと同様、
本作品自体も書かれてあることを
あるがまま受け止めるべき
小説なのです。
そうした観点から考えるに、
本作品はまさに日本版現代版
「アリス・イン・ワンダーランド」
なのでしょう。
中学生にお薦めしたい本です。

(2018.8.19)

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