「時の崖」(安部公房)

死の先には、さらに深い絶望が用意されている

「時の崖」(安部公房)
(「無関係な死・時の崖」)新潮文庫

「無関係な死・時の崖」新潮文庫

……負けちゃいられねえよなあ
……勝負だもんなあ
……負けるために、
勝負してるわけじゃ
ねえんだからなあ
……あ、これ、
昨日の牛乳じゃないか!
駄目だよ、しょうがねえなあ、
いくら冷蔵庫に
いれておいたって、
駄目なんだよ。…。

作品冒頭の一節を抜き出しましたが、
ほぼ全文、こうした主人公の告白
(というよりも心のつぶやき)で
構成された不思議な一篇、
なぜか引きつけられてしまい、
折に触れて読み返してしまいます。
安部公房の「時の崖」です。

上に掲げた一節から始まる、
「試合直前の心境」
(小見出しはなし)から始まり、
〈1ラウンド〉〈2ラウンド〉〈3ラウンド〉
〈4ラウンド・二分二十六秒〉から
構成されているように、
ある落ち目のボクサーの心のつぶやき
(途中にセコンドと思われる人物
「木村さん」の声が入る)を
追うことによって、
敗北の悲哀を描き出したものです。

5つの章には何が描かれているか
見てみます。
「試合直前の心境」では、負け続け、
崖っぷちに追いやられ、
踏みとどまろうともがく気持ちが
記されています。
続く〈1ラウンド〉では、
ボクシングの世界の競争の激しさ
(一人のチャンピオンは
50人のボクサーを潰した上で
のし上がる仕組みであること)が
述べられていきます。
〈2ラウンド〉では、
そのための自ら行った努力について
振り返っているのです。

ところが〈3ラウンド〉では、
落ち目となった自分に気づき、
ぼやきはじめます。
そして〈4ラウンド〉では、
ダウンしたあとの薄れていく意識を
追いかけているのです。

主人公のつぶやきだけで、
その試合の流れが
眼前に浮かんでくるような
錯覚をおぼえるのは、
安部の見事な筆致のなせる業でしょう。
でも、安部が狙ったのは、
そうした表現技巧の提示でもなければ、
ましてやボクシングの世界の
ルポルタージュを書き上げようと
したものでもないはずです。
では、安部は何を描こうとしたのか?

考えられるのは、表題にあるとおり、
「崖」と考えられます。
〈3ラウンド〉に、
このような一節があります。
「チャンピオンの向こう側が、
 いちばん急な崖なんだからな
 ……そうだろ?
 ……向うの崖を落ちるか、
 こっちの崖を落ちるか、
 それだけのちがいじゃないか
 ……けっきょく、
 落ちてしまうんだからなあ……」

これで負ければ
坂道を滑り落ちることは確か、
でもチャンピオンとて
そこから転落するときは
もっと急峻な崖を落下する、
そのどちらかしかないと
割り切っているのです。
そして彼の薄れゆく意識は、
さらに割り切りを見せます。
「いいよ、帰ったら、
 たらふく飯を食ってやるからな
 ……タバコも吸うし、
 酒だって飲んでやるぞ
 ……やりそこなったことを、
 すっかり、
 とり返してやるんだ……」

やはり安部作品は
読むものを不安に陥れます。
もしかしたら、自分も
崖っぷちに立っているのではないかと。
立ち止まれば坂道を転げ落ち、
進んだ先にも絶壁が待ち受けている。
現実の世の中も、
決して救いはないのかも知れない、
そんなことをふと考えてしまいます。

さて、主人公は、
その緩やかな方の坂道を
転落したのだと思ったのでしょうが、
筋書きはさらに
残酷さを加えていきます。
「ああ、頭が痛くなってきたぞ!
 痛いな……破裂しそうだな……
 たのむよ、誰か、
 なんとかしてくれよ……」

なんと、
緩やかな坂道を落ちたのではなく、
奈落の底に真っ逆さまに墜落し、
絶命していったのだと考えられます。

本作品、ラジオドラマ「チャンピオン」
(1963年)を小説化したものであり、
さらに戯曲「棒になった男」(1969年)の
第二景に、ほぼそのままの文章で
組み込まれています。
戯曲「棒になった男」は、
三景がまったく関連性のない筋書きに
見えつつ、「必ず同一の俳優が
演じなければならない」という指定を
安部は設けているのです。
「時の崖」から繋がる
第三景「棒になった男」には、
このボクサーの死後の、
さらなる無惨な有様が描かれています。
死の先には、それ以上に
深い絶望が用意されているのです。

いやいや、
暗くなってばかりいてはいけません。
そこから何を自分の血肉にしていくかが
読書の大切なところなのです。
本作品と戯曲「棒になった男」、
合わせてご賞味ください。

〔「無関係な死・時の崖」〕
夢の兵士
誘惑者

使者
透視図法

なわ
無関係な死
人魚伝
時の崖

〔安部公房の本はいかがですか〕
戯曲「棒になった男」は、
こちらに収録されています。

短編集では
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