「蜜柑」(芥川龍之介)②

芥川の「救われることのない魂」が見いだされる

「蜜柑」(芥川龍之介)
(「蜘蛛の糸・杜子春」)新潮文庫

昨日本作品を取り上げて、
「芥川作品の中で唯一、
明るい希望の持てる作品」と
紹介しました。
それは学生時代の初読以来の感想です。
この作品が好きで、
これまで何度となく読み返しています。
しかし、その度に疑念が膨らんでいます。
これは本当に
明るい作品なのだろうかと。

そう思うようになったのは、
「私」の心の変化に
気付き始めてからです。
この「私」なるものはどんな人物なのか?

「私」は「外套」を着ているのですから、
当然洋装の紳士です。
二等客室に乗り込んでいるのですから、
ある程度裕福なのでしょう。
でも幸せそうではありません。
「私の頭の中には
 云いようのない疲労と倦怠とが、
 まるで雪曇りの空のような
 どんよりした影を落していた。」

それは一過性の
「疲労」や「倦怠」ではありません。
「私」の心を覆っている「闇」が
常態化していることが、
次の一文から読み取れます。
「この隧道の中の汽車と、
 この田舎者の小娘と、そうして又
 この平凡な記事に埋っている夕刊と。
 これが不可解な、下等な、
 退屈な人生の象徴でなくて
 何であろう。」

「私」の、「娘」に対する視線も
悪意に満ちています。
「私はこの小娘の
 下品な顔だちを好まなかった。
 それから彼女の服装が
 不潔なのもやはり不快だった。
 最後にその二等と三等との
 区別さえも弁えない
 愚鈍な心が腹立たしかった。」

そうした鬱屈した心が、
「娘」の放った蜜柑、
そしてそれに込められた
「娘」の境遇と心象を
想像することによって一掃されたのが、
本作品の頂点の場面なのです。
「そこから、或得体の知れない
 朗な心もちが
 湧き上って来るのを意識した。」

そこで終わっていれば、
本作品は
「明るい希望の持てる作品」として
私の心の中に不動のものとして
位置付けられていたと思うのです。
しかし、芥川特有の最後の一文が、
やはり添えられています。
「私はこの時始めて、
 云いようのない疲労と倦怠とを、
 そうして又不可解な、下等な、
 退屈な人生を僅に
 忘れる事が出来たのである。」

「朗らかな心もち」は
このとき一瞬だけ訪れたのであり、
彼の心を覆う「闇」は
僅かも軽減されずに
そこに存在し続けているのだと
わかります。
名作「トロッコ」の終末
「塵労に疲れた彼の前には
今でもやはりその時のように、
薄暗い藪や坂のある路が、
細細と一すじ断続している。
…………」と
まったく同じなのです。

本作品からもまた、
芥川の「救われることのない魂」が
見いだされてなりません。

(2018.10.15)

【青空文庫】
「蜜柑」(芥川龍之介)

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