「ミス・マーサのパン」(O.ヘンリー)

思いやりは時としてすれ違う

「ミス・マーサのパン」
(O.ヘンリー/芹澤恵訳)
(「1ドルの価値/賢者の贈り物 他21編」)
 光文社古典新訳文庫

街角でパン屋を営んでいる
今年40歳になるミス・マーサ。
彼女はいつも
古いパンのみを買い求める、
みすぼらしい画家風の男に
好意を抱く。
固くなったパンではなく、
彼においしい手料理を
食べさせたい。
そう思った彼女はある日…。

子どもの頃、何かの雑誌に載っていた
読み物として読んだ記憶があります。
子どもながらにやるせない思いに浸り、
心に棘のように残った作品です。
確かタイトルが「あやまち」でした。
著者を記憶していなかったため、
30歳を過ぎてから
再発見できた作品です。
こんなに有名だったとは
思いませんでした。

芸術家は誇り高い人が多いのです。
その誇りを傷つけないように、
彼女は無言の好意を示すのです。
彼女は古いパンの内側に
たっぷりとバターを押し込み、
彼に手渡しました。

結果はご存じのとおり。
彼は設計士であり、古いパンは
消しゴム代わりに使っていた。
彼女の善意のバターは、
彼の渾身の作品を
台無しにしてしまう…。

これを単なるお節介と
切り捨てることはできません。
彼女は彼の貧しい身なりを観察し、
彼のやせ衰えている状況を見抜き、
そして彼が絵画について
詳しいことを試験し、
彼の誇り高い気質を
推し量っているのです。
名探偵顔負けの観察眼と、
O.ヘンリー作品の登場人物に共通する、
思いやりの深さを持った
マーサおばさんなのです。
40になるまで
堅実に暮らしていた女性が、
ただ一人の男に抱いたほのかな恋心を、
一体誰が責められるでしょう。

思いやりは、時として、
いや、多くの場合、
すれ違ってしまうのです。
「賢者の贈り物」でも、
夫の金時計の鎖を買うために
デラが自慢の髪を売り、
妻の髪にふさわしい櫛を贈るために
ジムは大切な金時計を処分する。
こちらはお互いの気持ちが通じ合い、
ハッピーエンドを迎えるのですが、
本作品はマーサの気持ちは
ひとかけらも彼には届かないのです。
でも、いや、だからこそ、
マーサの思いに共感してしまうのです。

それにしても、
邦題がたくさんありすぎます。
「あやまち」というタイトルを
手がかりに探しても、
見つからないわけです。
直訳すれば「魔女のパン」なのですが、
「ミス・マーサのパン」以外にも
「魔が差したパン」「善女のパン」
「善魔女のパン」などいろいろあります。

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ミス・マーサの行為を
「魔女」と表現するのは、
日本人の感覚としては
なじまないことの現れでしょう。
私は「あやまち」が
もっともしっくりくるのですが。

(2018.10.25)

〔追記〕
NHK朝の連続テレビ小説
「カムカムエブリバディ」において、
主人公・るいがこの作品を読んでいる
シーンが放送されました。
本作品の筋書きが
どのように絡んでくるのか楽しみです。
それにしても「カムカムエブリバディ」、
上白石萌音さんも
素晴らしかったのですが、
深津絵里さんも素敵です。
仕事があるため、
年末年始のこの時期しか
見られないのが残念。

(2022.1.3)

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【O.ヘンリーの本はいかが】

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