「荻窪風土記」(井伏鱒二)

読みどころは、淡々と綴られた文章と文学的交友

「荻窪風土記」(井伏鱒二)新潮文庫

井伏鱒二
昭和2年5月から実に67年間、
荻窪に住み続けていました。
井伏の年齢でいうと、
29歳から95歳までです。
本書には、
昭和初期に引っ越してきた際の
荻窪の地の様子と、
関東大震災を挟んでの
その変遷の様子を中心に、
井伏の交友関係や日常の様子が
書き綴られています。

カバー裏には
「自伝的長編」とありますが、
小説というよりは随筆です。
筋書きというべきものがないため、
そして文章表現も淡泊なため、
ともすれば
退屈になりがちなはずですが…、
不思議と面白く
読み進めることができました。

読みどころの一つは、
その淡々と綴られた文章なのでしょう。
代表作「黒い雨」もそうなのですが、
井伏は作品の中で
自身の感情を交えようとしていません。
あくまでも事実のみを
繋げているのです。
本書もまたしかりです。
関東大震災や二・二六事件という
昭和初期の劇的事件が
登場するのですが、
井伏はきわめて穏やかに
書き綴っています。
小林多喜二の拷問死についても
他人事ともいえるくらい
その筆致は冷静です。

しかしだからこそ、
書かれているすべてが
そのまま伝わってくるのだと
思うのです。
荻窪の地が時代とともに拓かれ、
豊かな自然が失われてきた。
それを声高に叫ぶのではなく、
「関東大震災前には、
品川の岸壁を出る汽船の汽笛が
荻窪まで聞こえていた」と
事実を記すことで、
より明確に伝わるものがあるのです。

もう一つの読みどころは、
井伏の文学上の交友関係が
記録されている点です。
文士は「孤高」という
イメージがあるのですが、
本書を読む限り
群れるのが好きな人種なのでしょう。
本書には太宰治(学生時代から
親交があった)をはじめとして、
武者小路実篤、谷崎潤一郎、
菊池寛、佐藤春夫、川端康成、
上林暁、林芙美子、永井龍男、
海音寺潮五郎、長谷川如是閑、
亀井勝一郎、小山清、等々
同時代を生きた文学者たちの名前が
次から次へと現れます。

特に太宰治については、
改名前の津島修治として
原稿を見てもらう場面や、
井伏とともに釣りに興じる場面が
描かれていて、
太宰が好きな私は
楽しく読むことができました。

井伏鱒二の作品は
「黒い雨」「山椒魚」以外の作品に
あまり光が当たらない状況が
続いていて、
数点が絶版の憂き目に遭っています。
本書はまだ現役中ですが、
忘れ去られることのないよう
祈りたいと思います。

(2019.9.18)

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