「人心」(宇野浩二)

世の中を図太く渡り歩いた宇野の骨太な人生観

「人心」(宇野浩二)
(「子を貸し屋」)新潮文庫

横浜の芸者屋へ
身売りした元妻が、ある夜、
「私」を訪ねてきた。
「私」はそのとき
貧乏のどん底であり、
下宿を追い出される
寸前であった。
夕飯も食べていない
彼女だったが、食べさせる銭も
泊める宿もない身の「私」は、
仕方なく…。

昭和二十五年に出版されたものが
改版されずにそのまま
復刊した文庫本であるため、
本書は旧仮名遣い・
旧字体のままになっています。
そのためやや読みにくい
(古い漢字に馴染みのないものが多い)
感があるのですが、
慣れてくるにつれ、
面白さがわかるようになりました。

おもにヒステリーを抱えた
元妻に関わる話題を中心に、
「私」の身のまわりのことを
書いてあるだけの小説なのですが、
「筋書き」ではなく
「話術」で読ませる作品なのです。

「私」に会いに来た彼女を、
明日には逃げ出ようと決めていた下宿に
一晩泊める顛末、
母を親戚の田丸家に預け、
仲戸丈助方に下宿し、
小説の執筆にいそしもうとした話、
ヒステリーの彼女と
駆け落ちした横須賀の回想、
それをもとにして
小説「苦の世界」を書いたこと、
子持ちの芸者・ゆめ子との出会い、
ヒステリーの彼女が
殺鼠剤を飲んで自殺した一件、
小説家として身を立てた暁には
必ず彼女を
芸者屋から請け出すと約束し、
それが果たせなかったことの無念など、
「私」は蕩々と語り続けるのです。

調べてみると、
このヒステリーの彼女のモデルは
伊沢きみ子という女性。
宇野浩二の苦労を支えるため、
きみ子は芸者屋に身売りしています。
そして宇野自身、
きみ子の芸者屋からの脱走を
幇助しています。
つまり、ここで語られていることは、
ほとんど作者宇野の
「身の上話」なのです。

現代に置き換えれば
悲惨この上ない
「身の上話」なのですが、
決して暗くなっていないのが
本作品の特徴でしょう。
そしてそれこそが
作家・宇野浩二の作風なのです。
本作品のはしがきに
次のように書かれています。
「ほとんど何の經歴もなしに、
 三十歳になつたといふのが、
 もつとも適當ないひかたでせうか、
 私は、かつて家庭らしい家庭に
 そだつたことがなく、
(中略)、
 財産もなく、といつて、
 職業らしい職業にも
 ついたことがない」

三歳で父親に死なれ、
困窮を極める中で
明治・大正の世の中を
図太く渡り歩いたであろう
宇野の骨太な人生観が、
本作品には浮き彫りにされています。

(2020.3.30)

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