「逃げる鼻」(ロダーリ)

なぜ鼻なのか?耳や目ではいけないのか?

「逃げる鼻」(ロダーリ/内田洋子訳)
(「パパの電話を待ちながら」)
 講談社文庫

「鼻がない!」男はある朝、
鏡を見てびっくりする。
外を見ると、
鼻は海へと向かっていた。
男は慌てて追いかけるものの、
鼻は水面に広げたマントに乗り、
ゆっくりと海上を進んでいた。
男の問いかけも無視し、
鼻は逃げおおせる…。

鼻がとれる話を、
以前2つ取り上げました。
ロシア・ゴーゴリ「鼻」
日本・芥川「鼻」です。
なんとイタリアにもありました。
ロダーリの本作品、
「ロシアの作家ゴーゴリは、
レニングラードでの奇妙な鼻の物語を
書きました。」から始まるように、
ゴーゴリをしっかりと意識しています。

さて、顔の中で鼻が離脱する。
作家たちはなぜ鼻を選ぶのか?
耳や目ではいけないのか?

目が顔から離れて一人歩きすれば、
オカルトかホラーか
ゲゲゲの鬼太郎になってしまいます。
目のない顔は恐怖であり、
そこに笑いはありえません。
何よりも眼球は強い衝撃により
飛び出る可能性がありますので、
洒落にならないのでしょう。

耳がとれる話は
あっても不思議でありませんが、
耳が取れても
髪形でごまかすことも可能ですので、
あまり面白くなさそうです。
一応、「耳なし芳一の話」がありますが。

口はどうか?
口は「とれる」というよりも、
顔から口がなくなれば、
むしろ口がふさがったと
いうべきかも知れません。
また、「顔から離脱した口」を
イメージするのも困難です。

顔以外のパーツを
外してしまったのは川端康成です。
ダイナミックに
腕をとってしまいました(「片腕」)。
こちらは腕が勝手に外れたのではなく、
所有者の女性が自分の腕を外して
男に貸し与えるという、
何とも淫らなお話でした。

目や耳や鼻と違い、
なくなっても機能的には
さして困らないように見え、
その実、顔の真ん中に
堂々と位置している構造上、
なければ非常にみっともないのが
「鼻」なのです。
考えると、とれてコミカルなのは
鼻だけなのかも知れません。

ゴーゴリの「鼻」は、鼻のくせに
話すこともできて、所有者と
丁々発止のやりとりをしました。
本作品も男の顔から脱出した鼻は、
持ち主に対して最後にたった一言、
ユーモラスな発言をします。

「鼻は、主人の顔を横目でジロリ。
 そしていかにも不愉快そうに、
 しわくちゃに身をよじって
 こう言いました。『あのな、
 二度と鼻に指をつっこむな。
 つっこみたいなら、せめて爪は
 切ってからにしてくれよ。』」

ロダーリは
イタリア児童文学の第一人者です。
本作品も、単身赴任の父親が、
毎晩娘に電話をして
お話を聞かせるというコンセプトで
編み出した短編集の一作です。
3つめの「鼻」、いかがですか。

(2020.7.13)

Foto-RabeによるPixabayからの画像

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