「父と暮らせば」(井上ひさし)③

原爆は人間の存在全体の上に落とされた

「父と暮らせば」(井上ひさし)
 新潮文庫

昨日に続いて、
井上ひさしの「父と暮らせば」です。
私は、最初の1ページ目の
「前口上」の部分だけでも、
中学生にぜひ読んで欲しいと
思っています。

「ヒロシマ、ナガサキの話をすると、
 『いつまでも被害者意識に
 とらわれていてはいけない。
 あのころの日本人は
 アジアにたいしては
 加害者でもあったのだから』と
 云う人たちがふえてきた。」

韓国・中国との未来を指向した
関係構築を考えたとき、
「ことさら被害者としての立場に
こだわるのはどうか」という考えは、
私も持っていました。
しかし、それは「ちがう」ということを、
井上ひさしは明確に断言しています。

「たしかに
 後半の意見は当たっている。
 アジア全域で
 日本人は加害者だった。
 しかし、前半の意見にたいしては、
 あくまで「否!」と言いつづける。
 あの二個の原子爆弾は、
 日本人の上に
 落とされたばかりではなく、
 人間の存在全体に
 落とされたものだと
 考えるからである。」

国対国の戦争であることで
見えにくくなっていたのですが、
地球上で原爆の悲惨さを経験したのは
唯一日本だけなのです。
70年前の原爆は、
地球人全体の上に落とされたという
とらえ方がやはり正しいのでしょう。

「あのときの被爆者たちは、
 核の存在から逃れることのできない
 二十世紀後半の
 世界中の人間を代表して、
 地獄の火で焼かれたのだ。
 だから被害者意識からではなく、
 世界五十四億の人間の一人として、
 あの地獄を知っていながら、
 「知らないふり」することは、
 なににもまして
 罪深いことだと考える」

日本人というスタンスで
戦争をとらえたとき、
韓国・中国をはじめとする
アジア各国の人々に多大な苦痛を与えた
加害者としての立場と、
民間人80万人を含む
戦没者310万人にものぼる
国民の命の損失を受け入れざるを
得なかった被害者としての視点の、
両方が必要であると私は考えます。

しかし、こと原爆については、
被害者としての狭いとらえ方では
いけないのです。
人類を代表して原爆の恐ろしさを
体験した方々の、
次の世代の一員として、
さらに次の世代へ、
そして他の国々の人たちへ、
私たちはしっかり伝えていく
義務があると思うのです。
本作品に込められた
井上ひさしの思いを、
しっかりかみしめ続けたいと思います。

※いつか演劇の「父と暮らせば」を
 観たいと思っているのですが、
 地方在住ではそれもかなわず…。

(2020.8.7)

uzildayによるPixabayからの画像

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