「燃えつきた地図」(安部公房)②

すべてを失うことでしか得られない「幸福」

「燃えつきた地図」(安部公房)
 新潮文庫

コーヒー店「つばき」で
暴行を受け、
怪我をした「ぼく」は、
依頼人・波瑠の部屋へ転がり込む。
期限まで調査を継続すると
約束する「ぼく」だったが、
目覚めたときには
その時間はとうに過ぎていた。
「ぼく」は
彼女に向かって歩き出す…。

前回、「ぼく」は単なる
記憶喪失ではないと書きました。
「ぼく」の記憶をすべて失うとともに、
調査対象である根室洋が
捉えたであろう心象風景の断片を、
疑似記憶のように組み込んでしまった
ものと考えられます。
そうした「ぼく」の変質は、
波瑠の家において目覚めた後で
あることが示されています。

「彼女は、
 レモン色のカーテンの前を横切り、
 すると顔が黒くなり、
 髪が白くなり、
 唇も白くなり、
 黒目が白くなり、
 白目が黒くなり、…」

「ぼく」の視界の
ポジとネガが反転しているのです。
そして波瑠に接近を試み、
「そっと足音をしのばせ、
 ドアに向かって歩き出す」

波瑠の部屋の描写は
そこで突然打ち切られ、
最終場面に引き継がれます。
「そこでぼくは、
 ゆっくりと立ち止まる。」

「ぼく」が「歩き出し」た先は、
波瑠との新しい生活と
考えることができます。
契約上の調査期限を過ぎていたこと、
そして「ぼく」を丸二日間、
部屋で介抱していたことから、
二人はもはや気持ちの上では
依頼主と調査員という関係を
抜け出ていたと考えられます。
しかし同時に「ぼく」は
「ゆっくりと立ち止まる」のです。

記憶を失った「ぼく」は、
波瑠という女性を求めながらも、
同時に背を向けるのです。
それは「ぼく」の電話に応じて
駆けつけた女性(これが波瑠自身)から
身を隠すことにも繋がっているのです。
いや、彼が背を向けたのは
波瑠に対してだけではなく、
自分を縛り付けるもの
すべてに対してなのでしょう。
仕事も住所も記憶も名前も、
そうした自身を特定すべきもの
すべてに背を向け、
「失踪者」として歩き始めるのです。

それでいながら本作品には
悲壮感はありません。
それどころか不思議な幸福感さえ
漂っています。
「砂の女」の終末と同様です。
すべてを失うことでしか得られない
「幸福」があると
言っているかのようです。

本作品の発表は1967年。
高度経済成長のただ中です。
人と人との繋がりが希薄化し、
都会が「人の砂漠」と表現されるように
なった時期でもあります。
それから半世紀が過ぎ、ネットによる
新しい繋がりが現れました。
安倍が生きていれば、
現代社会をどのように観察したのか、
知りたいところです。

(2021.10.18)

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