「旅びと」(佐藤春夫)

その行間に、佐藤の悲痛な心が織り込まれている

「旅びと」(佐藤春夫)
(「女誡扇綺譚」)中公文庫

――とこうその女が
言ったと言えば、君たちは
愛想のいい宿屋の女中が
お世辞を言ったと思うでしょう。
それに違いないのです。
ただ、それだけの言葉が
しんみりとした味に
受け取れたと思いたまえ。
いい女かいって?
何でもない…。

最近(2020年8月)になって刊行された
佐藤春夫の「台湾小説集 女誡扇綺譚」に
収められている一篇であり、
一読すると紀行文のような作品です。
筋書きらしいものがないために、
冒頭部の一節を抜粋しました。
佐藤は実際に本作品の行程で
台湾旅行をしているため、
紀行文であることを疑わずに
本書巻末の「とじめがき」に目を通すと、
本作品が小説であることが
書かれてあります。
小説だとすると、
その創作部分はどこなのか?

手がかりの一つは
巻末の解説にありました。
佐藤の台湾旅行は
傷心を癒やすためのものだったのです。
妻・香代子が弟と
密かに愛し合っていたことに気づき、
当時佐藤は、執筆不能となるまでの
衝撃を受けていたのです。

そして手がかりのもう一つは、本書の
資料「佐藤春夫の台湾旅行行程図」に
記されている旅程
(1920年7月6日から10月15日の間、
台湾に滞在し、
諸処を訪問していた)です。
その半年後に起きたのが、
かの「小田原事件」なのです。
谷崎潤一郎が妻・千代に
冷淡であるのを見た佐藤の同情は、
次第に恋慕へと変わります。
谷崎はいったん佐藤に
妻を譲る約束をするのですが、
妻の妹・せい子との結婚が頓挫し、
妻が惜しくなった谷崎が
その約束を反故にし、
二人の友情が決裂したのが
「小田原事件」です。

したがって本作品は、
妻の不貞と「小田原事件」の、
二つの傷が癒えていない時期に
書かれたものと考えられます。
それを意識して再読すると、
気になる部分が見つかります。

一つは「五」の節にある、
「私」の内地での女についての記述です。
「私には別に
 大へん好いている人がいた。
 それから
 大へん好かない女房がいた。」

「大へん好いている人」というのは
千代であり、
「大へん好かない女房」というのが
香代子夫人であると考えられます。

もう一つは「八」の節にある、
宿屋の女に関する表現です。
「おもかげがどこか、
 さっき言った私の大好きなひとに
 似ないではない」

冒頭に掲げた一節の女性です。
「十二」の節で女は客である「私」に、
自分の抱えている苦しみの
一端を打ち明けるのですが、
それだけで何も進展しません。「私」も
なんともしてあげられないのです。
そのシチュエーションは
佐藤と千代との関係を彷彿とさせます。

単なる紀行文に思えたのですが、
その行間に、佐藤の悲痛な心が
織り込まれているように
感じられてなりません。
自らの心象風景を、
暗号のように書き表した
作品なのではないでしょうか。

文学はその表面に
書かれてあることだけが
すべてではないのだと思います。
調べてみて初めてわかることが、
確かにあります。
だから読書は止められないのです。

※こうしたマイナーな作家の
 マイナーな作品を
 味わい深く編纂して出版する
 中公文庫。
 近年その存在価値が
 急速に高まっています。
 中公文庫の出版姿勢を
 全面的に支持します。

(2021.12.1)

Ke HugoによるPixabayからの画像
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