「ラ氏の笛」(松永延造)

どうしても心に「ささくれ」をつくってしまう

「ラ氏の笛」(松永延造)
(「百年文庫097 惜」)ポプラ社

「百年文庫097 惜」ポプラ社

「私」の友人・
ラオチャンド(ラ氏)は、
「私」が助手を務める病院に
入院している。
もはや死を覚悟しているラ氏は、
ある月夜の晩に、
そっと二階の物干し台へと
昇っていこうとした。
「私」が横合いから見ていると、
アリヤンの娘が現れ…。

心に「ささくれ」をつくってしまう
短編小説がいくつかあります。
本作品もそうしたものの一つです。
数年前に一読し、
しかし心の中で整理がつかず、
時間をおいて今回再読しました。
依然、引っかかりは取れないままです。

冒頭に掲げた一場面は、
何かロマンチックなことが
始まるかのような印象を受けますが、
まったく違います。
女性はラ氏と同郷の印度人であり、
おそらくは彼の恋人です。
結婚して欲しいという
彼女の願いをはねのけ、
代わりに自ら吹いて聴かせた笛を
彼女に差し出し、
これを吹いてみろと迫るのです。
彼女は身を引きます。

死を目前にしたラ氏が、
彼女の愛を拒むのは理解できるにせよ、
自身の吹いた笛を吹かせることにより、
「私の病気を恐れている
彼の女の心をためす」のは
どうにも共感できません。

共感すべきではないのかも知れません。
死期の迫った病人の心情は、
健康な人間が想像できない
何かがあるのでしょう。
それが本作品の
「ささくれ」をつくる部分の一つめです。

ラ氏が「私」に語った死生観も、
読み手には
受け入れがたい部分があります。
「月が欠けている時、それは本統に
 半分を失って了ったように見える。
 けれど、実は何ものをも
 失ってはいないのだ。
 私が不意に居なくなるとしても、
 それは月の部分が
 欠けるようなもので、
 実は何も変わった事は
 起こっていないのだ」

彼は叔父から諭された話として
紹介するのですが、これもまさに
「死期の迫った病人の心情」であり、
健康な読み手には共感できないし、
共感すべきでない考え方です。
ここもまた本作品の「棘」であり、
心にどうしても引っ掛かって
「ささくれ」をつくってしまうのです。

体力の衰えたラ氏は、
「私」にこう伝えます。
「何うして私は幸福をかち得たか?
 何時も不幸でもって、
 幸福を買ったのである。
 私は君と
 大変親密にして貰って嬉しいが、
 そうなる為めには、
 私の病気が色々と機会を造った」

美しい「幸福観」のようにも思えますが、
大きな不幸の中で見つけた
小さな幸福に過ぎず、
あまりにも悲しすぎます。

本作品は、まさにその点に触れて
幕を閉じているのです。
「幸福と云うには足らぬ、
 そのような浅い喜びを除いたなら、
 他の何処に彼れの死を以って買った
 幸福が発見されよう。
 私は全く、その問いに対して、
 正しい答の出来ないのを
 寂しく思うのである」

この作者の虚しい自問自答が、
本作品の最大の「棘」であり、
決して明るい読後感は得られず、
したがって心のどこかが
「ささくれ」立ってしまうのです。

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今日のオススメ!

なぜ作者・
松永延造(まつながのぶぞう)は
そのような作品を描き上げたのか?
作者自身の境遇にその鍵がありました。
松永は幼少期に脊椎カリエスに罹り、
病床に伏していたのです。
十八歳頃には松葉杖で歩けるくらいに
回復しますが、
思春期の大切な時期を、
自身の病と向き合いながら
過ごさなければならなかったのです。
しかも脊椎カリエスは、
当時は不治の病と言われた結核を
原因として発症する病状であり、
当然、結核の保菌者であり、
周囲から接触を避けられたケースも
多々あったのではないかと
推察できます。
松永は、成人以降も闘病生活を続け、
44歳で亡くなっています。

本作品には、ラ氏の病気については
一切詳しいことは記されていません。
しかし感染する病に罹っていたことは
明らかであり、
おそらくは結核と考えられます。
ラ氏のものとして描かれている
「死期の迫った病人の心情」は、
松永自身がいだいていたものであった
可能性が高いのです。
本作品は、松永の痛々しい経験から
生み出されたものであり、
まさに身を削って創り上げた
作品といえるのでしょう。

だからこそ、
読み手の心に「ささくれ」を
つくってしまうのかも知れません。
本作品は、健康なことが
当たり前である人間の心に対し、
すんなりと入り込むことを
拒絶しているかのようです。

時間をおいて
もう一度読んでみたい作品です。
私自身が健康を損ねて、
あるいは老いに倒れて、
それまで見えなかった「死」が
その姿をおぼろげに現したときに
読んだら、
いったいどんなふうに
迫ってくるのだろうかと
考えてしまいます。
決して後味の良い作品ではありません。
しかし一読の価値ある貴重な作品です。
ぜひご賞味ください。

〔「百年文庫097 惜」〕
枯れ木のある風景 宇野浩二
ラ氏の笛 松永延造
赤まんま忌 洲之内徹

〔松永延造の作品〕
残念ながら、現在本書以外に
松永作品は流通していません。
青空文庫で
次の2作品を読むことができます。

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44歳までの短い人生、
それも闘病生活の中での
執筆であったためか、
松永は全集も全3巻に収まるくらいの
作品しか残していません。
再評価の気運が高まることを
願っています。

(2023.7.11)

Antonio LópezによるPixabayからの画像

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