「百年文庫088 逃」

逃亡といっても、その深刻度はピンからキリまで

「百年文庫088 逃」ポプラ社

「百年文庫088 逃」ポプラ社

「男鹿 田村泰次郎」
ある冬の寒い日、一人の男が、
私を訪ねてきた。
「大木戸登を、ご存じでしょう?」
私は知っていると答えた。
知ってはいるが
私は大陸の戦場で、
彼と別れたきり、
逢ってはいなかった。
「あの男は、鹿になりました。
牡の鹿にね」
終戦直後は…。

百年文庫第88巻、テーマは「逃」、
つまり逃亡です。
収録されている三篇には、
それぞれ「逃亡者」が登場します。
といっても、その深刻度は
ピンからキリまで。さて、
どんな逃亡が描かれているのか。

第一作「男鹿」の逃亡は
もっとも深刻です。
殺人犯の逃亡ですから。
しかし単なる逃亡ではありません。
それは捜査の手を
かいくぐったというよりも、
鹿にその身を変え、自然の中に
溶け込んだとしか思えないからです。
だからといって、
中島敦の「山月記」や、
安部公房得意の変身ものなどでは
ありません。
もちろんSFでもなければ
ホラーでもありません。

本作の逃亡者・大木戸登は、
いったい何から「逃げた」のか?
おそらくは「人間であること」からの
逃走だったに違いありません。

「幌馬車 ゴーゴリ」
Б町に騎兵連隊が
駐屯し始めて以来、
町は賑やかになる。
貴族・チェルトクーツキは
自慢話の末、翌日の昼、
将軍と将校たちを
午餐会に招待し、
その席で愛用の幌馬車を
披露する約束をする。
しかし彼はその晩
カルタに興じるあまり…。

「男鹿」の逃亡が、
「人間であることからの逃走」という、
何かのメタファーのような
謎めいた部分を
内包しているのに対して、
第二作「幌馬車」の主人公・
チェルトクーツキの逃亡は、
単なる一時的な「現実逃避」です。
こちらは深刻度のもっとも軽い
「逃亡」であり、コメディタッチです。

お偉方を明日の午餐会に
招いておきながら、
チェルトクーツキはそのままその場で
カルタ遊びにはまり込み、
酔いつぶれた挙げ句、
帰宅したのは明け方四時。
当然昼まで眠り込むことになります。
来客に気づいた妻が
彼をたたき起こすのですが、
時すでに遅し。
午餐会のことなど家人は
聞いていないのですから
準備ができていようはずもなく…、
当然のごとく
「逃亡」することになるのです。
自宅の馬小屋に。
従って当然のごとく
「逃亡」は失敗します。

「三人の見知らぬ客 ハーディ」
嵐の夜、
子どもの誕生を祝う祝宴の
催されている家に、
見知らぬ男が雨宿りを願い出る。
人のいい主人は
男を招き入れるが、そこにさらに
もう一人の男がやってくる。
そして三番目に現れた男は、
先客を見て
ぶるぶると震え始める…。

第三作「三人の見知らぬ客」は、
前二作の合わせ技のような作品です。
深刻度大の予感を漲らせながら
始まった筋書きは、
終末では全く異なる表情となって
幕を閉じます。
嵐の夜に訪れた三人の見知らぬ客。
その中に脱獄囚(死刑囚)が一人だけ
混じっていたのですから深刻です。
そしてもう一人はその死刑執行人。
死刑囚とその執行人の
息詰まる対決が見られるかと思えば…。
果たして「逃亡」は
成功したのか失敗したのか?
本作品だけはぜひ読んでその結末を
確かめていただきたいと思います。

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今日のオススメ!

「逃亡」というテーマで、
三つの異なる色合いの作品が
並べられています。
作者も田村泰次郎
ゴーゴリハーディと、
国籍も年代も毛色も全く異なる
顔ぶれが並びました。
これも百年文庫ならではの味わいです。
読み応えのある
一冊に仕上がっています。
ぜひご賞味ください。

〔田村泰次郎の本〕
1911年生まれの田村泰次郎もまた、
その著作のほとんどが
絶版となってしまった作家です。
新潮文庫とちくま文庫から作品集が
電子書籍として復刊しています。

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〔ゴーゴリの本〕
ゴーゴリも現在流通しているのは
以下の2冊だけです。

古書を探せば、
いくつか面白い作品に出会えます。

〔トーマス・ハーディの本〕
日本では以前から
親しまれてきた作家なのですが、
文庫本では次の一冊が
流通しているのみです。

絶版ですが、古書を探すと
こうした本も見つかります。
「ハーディ短編集」(新潮文庫)
「月下の惨劇 他五篇」(岩波文庫)
「幻想を追ふ女 他五篇」(岩波文庫)
「テス 上」(ちくま文庫)
「テス 下」(ちくま文庫)

単行本では
「トマス・ハーディ全集」(全19巻)
「トマス・ハーディ短篇全集」(全5巻)
出版されていて、
いくつかは現在も流通中です。

(2023.7.25)

Greg WaskovichによるPixabayからの画像

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