「神楽坂」(矢田津世子)

描かれているのは「昔の女性の生き方」ではない

「神楽坂」(矢田津世子)
(「神楽坂/茶粥の記」)講談社文芸文庫

「神楽坂/茶粥の記」

馬淵の爺さんは家を出た。
いつもの用ありげな
せかせかした足どりが
通寺町の露地をぬけ出て
神楽坂通りへかかる頃には
大部のろくなっている。
ここいらへんまでくれば
寛いだ気分が出てきて、
家を出る時からの
気づまりな思いを…。

妾を囲っているとなると、
金持ちというだけでなく、
金離れがいい男というイメージが
一般的だと思います。
しかし本作品で妾宅に足繁く通う
馬淵の爺さんは、
一大で身代をつくりあげた
金持ちではあるのですが、
同時に吝嗇家でもあり、
妾にも自分の妻にも、
そして自分自身にも、
贅沢をさせていないのです。
だからといって、ケチな年寄りを
描いた作品ではありません。
その周囲の女性たちの生き方を
描いているのです。

〔主要登場人物〕
馬淵の爺さん(馬淵猪之助)
…財産家の老人。吝嗇家。
 かつて高利貸し渡仙の手代を務める。
お初
…爺さんの妾。二十三歳。
お上さん
…お初の母親。
内儀さん
…爺さんの妻。病床に伏している。

…住み込みの女中。脚が不自由。
 内儀の面倒をかいがいしくみる。
 十四歳まで孤児院暮らし。

まず一人目はお初です。
老人の妾になっているとはいえ、
それに満足できるはずはありません。
決して裕福な生活は
できていないのですから。
同級生が幸せな結婚をしているのを
羨ましく感じる心情が
綴られている一節があるくらいです。
ではなぜそうした生活を
抜け出さないのか?

抜け出せないのです。
貧困の末にたどり着いた境遇です。
生まれたときから母子家庭です。
現代とは異なり、
作品の舞台は昭和初期。
生きていくのが難しかった時代です。

やがて本妻が亡くなるのですが、
まだ若いお初は、
後妻となるのも気が進まず、
かといって他の女がそこに収まるのも
しゃくに障るのです。

二人目はお初の母親「お上さん」です。
作品冒頭部分では
詳しい説明がなされていないため、
この女性が囲われているのだと
思っていましたが、
妾は娘の方なのです。
母親は、この娘を頼りに、
生きるしかないのです。

三人目は爺さんの内儀です。
けなげな女性であり、
吝嗇家の夫に感化され、
内職などもしながら
夫の蓄財を助けているのです。
働かなくとも十分に食べていけるで
あろう経済状態でありながら、
働きづめで体を壊し、
命を縮めているのです。

四人目は種です。
十四歳まで孤児院暮らしだったため、
給金なしでの女中生活を苦にしません。
内儀の手仕事を手伝いながら、
こちらも爺さんの
蓄財の一助となっているのです。

現代では考えられないのですが、
これが昭和初期の女性の立場なのです。
男に頼るしかない生き方。
尽くすのが美徳とされた生き方。
いわゆる家父長制の弊害です。

昭和初期という
遙か昔の作品でありながら、
現代の私たちが読んでも
考えさせられる部分が大きいと
感じます。

戦後、民法改正で
「家制度」が廃止されましたが、
「家父長制の実質」はそれ以後も残り、
高度成長期には
「性別役割分業」の名の下に、
それは固定化されてしまいました。
1985年には
「男女雇用機会均等法」が制定され、
女性の職場進出は
進んだかのように見えましたが、
企業は雇用における女性差別を、
「総合職」(ほぼ100%男性)と
「一般職」(100%女性)という
コース別人事管理制度を導入する
「雇用区分差別」に置き換えることで
決着を図ったため、
実態の全く変化しない
「機会均等」となりました。
さらには長引く平成不況の間に、
その一般職は解体され、
多くの女性たちが不安定な
非正規労働者へと追いやられています。
世界経済フォーラムが発表した
2022年のジェンダー・ギャップ指数の
日本の総合順位は、146か国中
116位という、惨憺たる状態です。

本作品の作者・矢田津世子は、
明治40年生まれの秋田美人。
坂口安吾の恋人と言われていた
女性です。
肺結核を患い、
わずか37歳でこの世を去っています。
彼女が今の世の中を見たとき、
どんな問題を感じ、
それをどのように作品に仕上げたのか、
興味の湧くところです。

〔「神楽坂/茶粥の記」〕

神楽坂
旅役者の妻より
女心拾遺
凍雲
痀女抄録
茶粥の記
鴻ノ巣女房

〔関連記事:矢田津世子の作品〕

〔矢田津世子の本はいかがですか〕
本書も、そのワイド版も、
現在流通していません。
古書を探すしかない状態です。
「神楽坂/茶粥の記」講談社文芸文庫
「神楽坂/茶粥の記」(ワイド版)講談社

彼女の生地にある五城目町教育委員会が
2003年に出版した
全3冊からなる「矢田津世子作品集」を
手に入れたいと思っているのですが、
なかなか見当たりません。
何とかして入手したいと思っています。

(2023.9.7)

Dimitris VetsikasによるPixabayからの画像

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