精神の錯乱か、それとも真実か
「地図にない街」（橋本五郎）
（「新青年傑作選集3」）角川文庫
上京後、二ヶ月で全財産を失った
元士族の青年･寺内。
彼は公園で出会った
乞食の老人から、金を使わずに
生活する方法を教えられる。
服を手に入れ、
身なりを整えた彼は、
｢地図にない街｣に住む女性･
美代子と一週間
寝食を共にするが…。
昭和52年に刊行された
｢新青年傑作選集｣。
収録されている作品は
もちろんそれよりもかなり古く、
本作品は昭和5年発表。
今から90年以上前の作品でありながら、
その面白さは鮮度を失っていません。
〔主要登場人物〕
｢私｣
…語り手。
寺内氏から不思議な物語を聞く。
寺内氏
…｢私｣に自らの体験を語った三時間後、
自殺を遂げる。
精神病院に収監されている。
青年期に不思議な体験をする。
老人
…乞食。青年･寺内に
金を使わずに生活するすべを見せる。
美代子
…船員の妻。夫不在の寂しさから
青年･寺内と一週間生活し、
面倒をみる。
本作品の味わいどころ①
嘘か真か？昭和のわらしべ長者
まったく無一文となった
元氏族の青年･寺内。
貧しい中で生き延びるような
才覚があるわけでもなく、
あとは野垂れ死にを待つだけの
状態だったのです。
そこへ現れた老人もまた、
無一文の乞食の風体なのですが、
タバコを得てくる、
小銭を集めてくる、
無料宿泊所を確保する、
労働者の食堂でただ飯を食う、
逃亡者と服を交換する、次
から次へと欲しいものを
手に入れてくるのです。
そして老人はなんと｢それ以上のもの｣を
寺内に与えるのです。
「自分は寝た。そして食った、着た。
そのうえにいいこととは
何であろう？
金か、いや老人は金以上のものがと
いったのである。
金以上のものといえば――おお女、
老人は自分にひとりの恋人を
与えようというのではあるまいか？」
この、昭和初期の
わらしべ長者ともいえるような
前半部の展開を、
まずはたっぷりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ②
うまい話の裏には何があった!?
なんと身体を持て余している
船乗りの妻が、
寺内青年を一週間饗応するのです。
夢のような話なのですが、
本作品はミステリであって
ラブロマンス小説ではありません。
当然そこから事件が始まります。
寺内青年は何者かの運転する車に
ひき殺されそうになるとともに、
彼をもてなした女性も、
そして不思議な老人も、
忽然と姿を消すのです。
うまい話の裏には
当然何かがあるのです。
では、彼の一件の裏には
いったい何があったのか？
一風変わったミステリの、
謎めいた中間部の展開を、
次にじっくりと味わいましょう。
本作品の味わいどころ③
精神の錯乱か、それとも真実か
そこから語られる｢事件の裏側｣は、
実に驚くべきものです。
そしてそこには証拠となるものが
まったく存在しません。
三十を超えた寺内氏は、
巨大な権力の哀れな犠牲者なのか、
それとも単なる妄想癖の
精神病患者に過ぎないのか。
どちらにも取れるからこそ、
読み手は背筋に冷たいものを
感じざるを得ないのです。
真相(らしきもの)が明かされる
終末部のブラックなテイストを、
最後にしっかりと堪能しましょう。
さて、｢橋本五郎｣と検索すると、
読売新聞特別編集委員の方しか
出てこないのですが、
作家｢橋本五郎｣は1903年に生まれ、
1948年に没した、探偵小説作家です。
長編一作品のほかは
数編の短篇を遺しただけですので、
昭和初期の古典的ミステリが
好きな方以外には
その名を知られていない作家です。
しかし本作品を読む限り、
読み手を引きつける
魅力を持った作家であり、
忘れ去るには
惜しい存在といえるでしょう。
青空文庫でぜひご賞味ください。
〔青空文庫〕
「地図にない街」（橋本五郎）
〔｢新青年傑作選集3｣〕
振動魔 海野十三
カナカナ姫 水谷隼
監獄部屋 羽志主水
完全犯罪 小栗虫太郎
偽悪病患者 大下宇陀児
赤いペンキを買った女 葛山二朗
地図にない街 橋本五郎
二川家殺人事件 甲賀三郎
〔橋本五郎の作品はいかがですか〕
（2023.10.20）
【今日のさらにお薦め3作品】
【こんな本はいかがですか】
