なかなか始まらない、進展しない、登場しない…の面白さ
「動く指」(クリスティ/高橋豊訳)
ハヤカワ文庫
片田舎の町リムストックで
静養していた「私」のもとに届いた
誹謗中傷の手紙。
この町では最近、
こうした怪文書が
出回っているのだという。
それはやがて
弁護士シミントンの妻・モナの
服毒自殺を引き起こす。
続いてその家の使用人が…。
クリスティの
ミス・マープル・シリーズの第3作です。
「牧師館の殺人」も「書斎の死体」も
素敵なミステリでしたが、
本作品はそれ以上に感じます。
じっくりとじらされるような、
それでいて強烈に引きつけられる
構成の面白さが魅力です。
味わいどころは三つ、
「なかなか始まらない殺人事件」
「なかなか進展しない恋愛物語」
「なかなか登場しないマープル」の
三点です。
〔主要登場人物〕
「私」(ジェリー・バートン)
…語り手。傷痍軍人。療養のため
妹ともにリムストックを訪れる。
バートンの綴りは「Burton」。
ジョアナ・バートン
…「私」の妹。神経の太い女性。
リチャード(ディック)・シミントン
…事務弁護士。
モナ・シミントン
…ディックの妻。怪文書が届いた日、
服毒自殺を遂げる。
ミーガン・ハンター
…モナの先夫の娘。二十歳。
ブライアン・シミントン
…モナとディックの子。
コリン・シミントン
…モナとディックの子。
エルシー・ホーランド
…ブライアンとコリンの家庭教師。
美貌の若い女性。
アグネス・ウォデル
…シミントン家のお手伝い。
殺害される。
ローズ
…シミントン家のコック。
ギンチ
…シミントン弁護士事務所の事務員。
オーエン・グリフィス
…医師。
リムストックで「私」を診療する。
エメ・グリフィス
…オーエンの妹。
精力的に活動する女性。
エミリー・バートン
…「私」が借りたリトル・ファーズ邸の
持ち主。独身の老女。
バートンの綴りは「Barton」。
フロレンス
…エミリーのかつての使用人。
パトリッジ
…リトル・ファーズ邸のお手伝い。
ベアトリス
…リトル・ファーズ邸の
通いのお手伝い。
ベーカー夫人
…ベアトリスの母親。
ケイレブ・デイン・カルスロップ師
…リムストックの牧師。
デイン・カルスロップ夫人
…牧師の妻。
パイ
…シミントン夫妻の友人。
アプリートン少佐
…シミントン夫妻の友人。
マーカス・ケント
…ロンドン在住の医師。「私」の主治医。
バート・ランドル
…リムストックの交番の巡査。
ナッシュ
…郡警察の警視。
パーキンズ警部補
…郡警察の腕利きの警部補。
グレイヴス警部
…ロンドン市警の警部。
ミス・マープル
…デイン・カルスロップ家に
宿泊している老女。
本作品の味わいどころ①
なかなか始まらない殺人事件
本作品ではどんな奇っ怪な
殺人事件が起きるのか?
そう思って読み進めても、
語り手「私」によるリムストックの町や
そこに住む人物の描写が連続し、
なかなか事件が起きません。
ようやく103頁目で
事件開始となるのですが、
それはなんと自殺。
誹謗中傷の手紙に
衝撃を受けての自殺ですから、
殺人事件ではないのです。
では本作品は誹謗中傷の手紙の
差出人探しか?
そんなはずはありませんでした。
見事206頁目で
殺人事件が起きるのです。
全391頁にわたる本作品、
最初の自殺が103頁目、殺人事件が
折り返し地点を過ぎた206頁目。
しかも事件はたったこれだけなのです
(厳密には最後に殺人未遂事件が起き、
それによって犯人が逮捕される)。
まだるっこそうに思えますが、
読んでみるとそうは感じません。
むしろ頁をめくる手を
止められないくらいの緊張感を
孕んだまま進行していくのです。
クリスティの立てた緻密な筋書きが
そうさせるのです。
読み終えると、無駄なところなど
何一つないことに気づかされます。
なかなか始まらない殺人事件、
それでも読ませてしまう
筋書きの妙こそ、本作品の
第一の味わいどころといえるのです。
本作品の味わいどころ②
なかなか進展しない恋愛物語
事件と並行して進むのが
語り手「私」の恋愛物語です。
若い語り手=主人公ですから、
恋愛物語がないはずがありません。
「私」が一目惚れした(と思われる)
エルシー・ホーランドの登場です。
しかし「私」の眼に映る彼女の姿は
「女神」であったかと思うと
「容姿だけがむなしく美しく輝いている
感じ」だったり、
二人の仲はまったく進展しません。
じらされていると、
突然終盤近くになって、
「私」は自分の本当の気持ちに気づき、
一気にプロポーズまで進展するのです。
出会いの場面ではその女性を
「彼女は人間よりも
むしろ馬に近かった」と散々な
表現をしていたのですから驚きです。
そこまでの経緯を拾い読みしてみると、
確かに二人は愛し合いながらも
自らの気持ちに気づいていないことが、
読み手に提示されているのです。
これもまたクリスティの
絶妙な仕掛けの一つなのです。
なかなか進展しない恋愛物語、
そこに巧妙に描かれている
若い二人の恋愛の情こそ、
本作品の第二の味わいどころなのです。
本作品の味わいどころ③
なかなか登場しないマープル
そして探偵役のミス・マープルも
なかなか登場しません。
「あれ、この作品、ノン・シリーズ?
確かミス・マープル・シリーズだと
思ったんだけど…」と、
表紙カバーを確認したほどです。
ようやく登場するのは
なんと289頁目。そしてそれ以降も
前面には現れないのです。
しかしマープルは
しっかりと事件の真相を見抜き、
真犯人逮捕のための
準備をしていたのです。
もちろんマープルは年寄りですから、
自ら動きません。
典型的な安楽椅子探偵です。
その見事な推理と、
警察をも動かす人望こそ、
マープルの持ち味であり、
彼女が前面に出てこない本作品こそ、
その魅力が遺憾なく
発揮されているといえるのです。
なかなか登場しないマープル、
その独特の名探偵ぶりこそ、
本作品の最大の
味わいどころとなっているのです。
表題の「動く指」は、
真犯人が何か指を使う方法で
殺人を犯したのかと考えていましたが、
その「指」の持ち主は
マープルその人であり、
彼女が指を動かして
編み物をしている間に事件が
解決されるということなのでしょう。
カバー装幀も
マープルらしい女性の足もとに
転がっている毛糸を写し出しています。
これまでマープル・シリーズは
「牧師館の殺人」「書斎の死体」
「予告殺人」と読んできましたが、
マープルが奥に隠れている
本作品の味わいが最も強烈です。
隠れれば隠れるほど存在感が強くなる
不思議な個性を持つ名探偵マープル。
クリスティの術中に、
はまってしまうこと間違いありません。
ぜひご賞味ください。
(2025.1.10)
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