「他人の顔」(安部公房)

気付くと何かがひっくり返っています

「他人の顔」(安部公房)新潮文庫

液体空気の爆発事故で、
重度のケロイド瘢痕を負い、
顔を失ってしまった「ぼく」。
顔の喪失は職場の人間関係を
ぎくしゃくさせただけでなく、
妻にも関係を拒まれる始末。
妻への復讐心から、
「ぼく」は樹脂製の
精巧な仮面を装着し、
妻を誘惑し始める。
しかし、「他人」と密通する妻への
不信感は募り高まり…。

何度読んでも
独特の怖さを感じます。
読み進めているうちに、
気付くと何かがひっくり返っています。
読み手は自分がどこにいるのか、
何をどうとらえているのか、
絶えず不安に襲われます。
恐るべき安部公房の世界。

まずは、
「素顔」と「仮面」がひっくり返ります。
仮面はあまりにも精巧であったため、
仮面としての機能を果たす以上に、
もう一つの素顔として機能し始めます。
それによって、
「素顔を隠した自分」であったはずが
「もう一人の自分」となり、
しまいには「他者」となってしまいます。
「ぼく」が素顔を隠したために
新しい人格を生じさせたのですが、
読み手には、
「仮面」が意志を持ったようにしか
感じさせないような表現です。
このあたりで読み手はすでに
自分の位置確認が困難になり、
不安が広がっていきます。

次に、
「空想」と「現実」がひっくり返ります。
「ぼく」が妻に復讐を企てる場面は、
事細やかに詳細が語られ、
まるで現実に行った行為のように
錯覚させられます。
一方で、仮面を装着した「ぼく」が、
実際に妻と密会を重ねる場面は
具体的な記述に乏しく、
まるで夢の中の出来事のようにしか
感じられません。
書いてある内容の、
どこまでが「ぼく」の
現実に行った行為であり、
どこからが「ぼく」の空想の産物なのか。
ここまでくると、読み手の思考は
もはやダッチロールに陥り、
体勢の立て直しができなくなります。

そして最後に、
「ぼく」と「おまえ」(=妻)の立場が
ひっくり返ります。
書き出しでは明らかに
「ぼく」が物語の主導権を握っていました。
「おまえ」は「ぼく」の立てた筋書通りに
行動するしかないような雰囲気を
醸し出しています。
でも最後は…。
「ぼく」は「仮面」を使って「おまえ」を
蹂躙するつもりだったのですが、
気が付けば
「ぼく」と「仮面」は一つに統合され、
妻の支配下に置かれています。

「読み手」と「主人公」が
ひっくり返るのを
すんでの所で踏みとどまり、
文庫本を書棚に戻しました。
「もしかしたら自分も『ぼく』と
同じように妻に拒まれているのでは…」
などとあらぬ考えがよぎり…、
でも付ける仮面は…どうする!?

(2018.10.31)

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