「トカトントン」(太宰治)②

「私」の書いたウソは何を表しているか

「トカトントン」(太宰治)
(「ヴィヨンの妻」)新潮文庫

私はこの手紙を
半分も書かぬうちに、
もう、トカトントンが、
さかんに聞えて来ていたのです。
ウソばっかり書いたような
気がします。
花江さんなんて女もいないし、
デモも見たのじゃないんです。
たいがいウソのようです。

前回取り上げた本作品、
「私」の手紙の終末は、
「やけになって、ウソばっかり
書いたような気がします」。
えっ、今まで読み進めてきた内容は
単なる嘘っぱち?

考えられるのは2通りです。
1つは、
すべて本当にあった出来事であるが、
手紙を書く作業中
「トカトントン」が鳴り響き、
思考が混乱して
このように書いたというもの。
もう1つは、
書いてあるとおり、
すべて「私」の妄想に
過ぎなかったというもの。
後者であると仮定すると、
では「私」の妄想一つ一つは
一体何を表しているのか、
という疑問が生じてきます。

「トカトントン」の幻聴が
打ち壊した最初は創作活動です。
「私」は「百枚ちかく」の小説を
書き進めたところで
執筆の意欲を失います。
この枚数は太宰の処女作
「想い出」に近い数字です。
このことから、
これは太宰自身の創作活動を
意味しているのではないかと
推察されます。

幻聴が次に破壊したのは
「平凡な日々の業務に
精励するという事」。
これが何を意味しているのかは
わかりません。
もしかしたら、
これもまた創作活動なのでしょうか。
作家太宰にとっては、
創作こそ日々の業務でしょうから。

三度目は花江さんへの恋愛感情です。
これは太宰の
女性への思いなのでしょう。
太宰自身、女性への思いが
持続しなかったのですから。

四度目は「政治思想、社会思想」。
労働者のデモを見て、
革命的な思想を起こしますが、
金属音にかき消されます。
これも、戦時中そうした動きに
形だけ荷担した経験が
下敷きになっているものと
考えることができます。
そのあたりの経緯は
「苦悩の年鑑」という作品で
つまびらかにされています。

五度目は「虚無の情熱」です。
これについても「苦悩の年鑑」に
次のように記されています。
「私は純粋というものにあこがれた。
 無報酬の行為。
 まったく利己の心の無い生活。
 けれども、それは、
 至難の業であった。
 私はただ、
 やけ酒を飲むばかりであった。」

こうしてみてみると「私」は、
これまでの太宰の苦悩をなぞるように
「トカトントン」によって
精神を少しずつ
破壊されてきているのです。
「私」は太宰そのものを
表しているのでしょう。

(2018.11.23)

【青空文庫】
「トカトントン」(太宰治)

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