「ハックルベリイ・フィンの冒険」(トウェイン)③

トムではなくハックである理由

「ハックルベリイ・フィンの冒険」
(トウェイン/村岡花子訳)新潮文庫

二人の詐欺師を振り切ることに
成功したハックとジム。
しかし二人は離ればなれとなり、
さらにジムは
フェルプス家に捕縛される。
幸いなことにその家は
親友・トムの親戚であった。
トムと合流したハックは、
ジム奪還に向けて…。

本作品は冒頭と終盤に
トム・ソーヤーが登場し、
物語を盛り上げます。
というよりも、終盤は明らかに
ハックよりトムの方が目立ち、
主役を奪うような形となるのです。
だったら最初からこの冒険も
トムにさせたらよかったのでは?
実際、トウェインは本作品執筆後、
「トム・ソーヤーの探偵」
「トム・ソーヤーの探検」の
二つの続編を書いているのです。
本作品も「トム・ソーヤーの冒険Ⅱ」で
問題がないのでは?

ハックがトムと合流してからの
二人の考え方の違いを注目したとき、
作者がなぜ本作品のテーマを
トムではなくハックに任せたかが
わかります。

「トム―」で描かれたトムは、
「要領のよい不良」という一面しか
強調されていません。
でも彼は、学校をさぼっている割には、
なかなかに頭の回転がよいのです。
彼の思考の特徴は二つあります。
一つは「物事を斜めに見る」こと、
もう一つは「何でも冒険にしてしまう」
ことなのです。

トムとジムが冒険しても、
道徳や社会規範に反してまで
「ジムを自由にする」という結論に
たどり着いたかはなはだ疑問です。
人種差別に疑問を感じながらも、
論理的矛盾がないように
現実との折り合いを探るのではないかと
思うのです。
また、「冒険」にこだわるあまり、
本来の目的とは違った結果に
帰着する可能性もあります
(本作品の終末はそうなりかけている)。

一方、ハックはトムのような
「不良児童」ではなく、
根っからの「浮浪児」なのです。
その分、精神はまっさらで、
思考を妨げるような
知識や先入観を
持ち合わせていないのです。
その純白な魂にしか、
「よし、それじゃあ僕は地獄へ行こう」の
一言は発することはできないと、
作者は考えたのではないでしょうか。

この冒険は
トムにはできない冒険であり、
そして徹頭徹尾
ハックにしかできない冒険だったのです。
だからこそ主人公は
トムではなくハックになったのでしょう。

「トムの冒険」の「Ⅱ」ではなく、
単なる「スピンオフ」でもなく、
一転して、ハックに
「大人向けの冒険」をさせたトウェイン。
世界文学史の巨人です。

※本作品については
 まだまだ書きたいことがあるのですが、
 このあたりにしておきます。
 何年か後に再読したとき、
 また書きたいと思います。

※本作品の柴田元幸訳が
 2017年に出版されています。
 文庫化されたら
 すぐ読みたいと思っています。

(2019.1.9)

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