「それから」(夏目漱石)①

代助の労働観は時代を大きく超越している

「それから」(夏目漱石)新潮文庫

働きもせずに
親の金で生活をしている代助は、
友人平岡と再会する。
平岡の妻・三千代は、
かつて代助が
恋心を抱いた相手だった。
生活に困窮する平岡を
助けようと奔走するうち、
代助はしだいに
昔の気持ちを思い出す…。

若い段階で読み込むのが
難しい小説の一つでしょう。
理由は代助の行動と思想が
現代ではしっかりと
理解されにくいからです。

代助は自らは働かず
親のすねかじりで生きています。
そのくせ働いている人間、
特に親しい友人の平岡でさえも
見下しているのです。
普通に読むと、
誰しもが「思い上がるな!」と
一喝したくなるのでは
ないでしょうか。

本作品を、
というよりも代助という人間を
理解するためには、
「高等遊民」という存在を
知る必要があります。
「高等遊民」とは
ウィキペディアによると、
「大学等の高等教育機関で
教育を受け卒業しながらも、
経済的に不自由がないため、
官吏や会社員などになって
労働に従事することなく、
読書などをして
過ごしている人のこと」。
「こころ」の先生をはじめ、
漱石の小説にしばしば登場します。
この「高等遊民」なるもの、
現代のニートとは本質的に違います。
引きこもって
グダグダしているのではなく、
積極的に文化的生活を
営んでいるのです。

さて、
大助を見ていて(読んでいて)、
つい考えてしまうのは、
「労働」とは何かということです。
彼は考えているのです。
「麺麭に関係した経験は、
 切実かも知れないが、
 要するに劣等だよ。
 麺麭を離れ水を離れた
 贅沢な経験をしなくっちゃ
 人間の甲斐はない。」

つまり、
生きるために働くのは
人生の意味がないと考えているのです。
喰うために、生きのびるために
働くのは獣と同じである。
文化的な生活を
営んでこその人間である。
働くことによって、
人間的な生活が損なわれることが
問題なのだと。

昨今、労働の意味と意義が
問われています。
過労死と過労自殺の
ニュースが流れるたび、
人は何のために働くのか、
ということが議論されます。
食うために働いて、
結局は死に至るのでは
何のための労働なのか。
私たちの働き方は
間違っているのではないか。
いや、この国の働き方自体が
歪んでいるのではないか。

代助の労働観は、
時代を大きく超越しています。
彼は人間が働くことの
本質を理解しているのです。
100年以上前に書かれた本が、
現代の価値観を凌駕し、
未来を示唆している。
私にはそう感じられて仕方ありません。

(2019.2.4)

【青空文庫】
「それから」(夏目漱石)

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