「山月記」(中島敦)①

李徴はそれ以前から人ではなくなっていた

「山月記」(中島敦)(「李陵・山月記」)新潮文庫

詩人を志した李徵(りちょう)は、
その道に挫折し、発狂し、
ついには闇の中へ消え、
虎となる。
一年後、
明け方に通りかかった
袁慘(えんさん)をかつての友と
認めることのできた李徵は、
自分が虎になった
いきさつを語る…。

中島敦の代表作であるとともに、
日本文学の頂点の一つでもある
本作品。
李徴はなぜ虎になったのか?
彼自身の言葉の中に
手がかりを見いだすとすれば、
それは「臆病な自尊心」ということに
なるでしょう。

俗世と縁を切り、
人との交わりを経ち、
孤高の中で
詩の道を極めようとした李徴。
しかし彼はこう語ります。
「進んで師に就いたり、
 求めて詩友と交って
 切磋琢磨に努めたりすることを
 しなかった。かといって、
 又、己は俗物の間に伍することも
 潔しとしなかった。
 共に、我が臆病な自尊心と、
 尊大な羞恥心との所為である。」

もともと彼は
自尊心の強い人間だったのです。
若くして
地方役人として登用されながら、
人の下に付くことを好まず、
その官を辞して
詩作に臨んだのですから。
誰の力も頼らなくとも、
自分の才能のみで
道を究める覚悟だったのでしょう。

その述懐の前に、
李徴が袁慘に頼んだのは、
自分の詩を書き留め、
後世に伝えてほしいということ。
しかし、
彼が読み上げる詩を
書き記した袁慘は、
こう感じています。
「格調高雅、意趣卓逸、
 一読して作者の才の非凡を
 思わせるものばかりである。
 しかし、このままでは、
 第一流の作品となるのには、
 何処か欠けるところが
 あるのではないか。」

李徴の詩に欠けているもの、
それは「人間性」と
読み取ることができます。
人の心に訴えかける芸術というものは、
人との交わりの中からしか
生まれないということかもしれません。
彼は自らを振り返り、
こう続けます。
「人間は誰でも猛獣使であり、
 その猛獣に当るのが、
 各人の性情だという。
 己の場合、
 この尊大な羞恥心が猛獣だった。
 果ては、己の外形をかくの如く、
 内心にふさわしいものに
 変えて了ったのだ。」

李徴はそれ以前から
人ではなくなっていた、
つまりその内側から
人間ではなくなっていたのです。
人の心をなくしてはいけない。
現代社会に向けられた
メッセージであるかのようです。

(2019.2.20)

【青空文庫】
「山月記」(中島敦)

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