「終わりし道の標べに」(安部公房)

他の作品の「喪失」とは異なる

「終わりし道の標べに」
(安部公房)新潮文庫

大陸で馬賊の虜囚となった「私」は、
そこで特別の待遇を受ける。
馬賊の首領らは
「私」が大きな秘密を
握っているものと
考え違いをしていたからである。
やがて病を得て
体力の落ちた「私」は、
死への近道としての
阿片を勧められる…。

安部公房の処女作(本書新潮文庫版は
改訂版ですが)である本作品は、
硬質な文章と難解な表現の連続で、
僅か160頁程度であるにもかかわらず、
読み通すのに非常に大きな
エネルギーを要しました。
読み終えた今でも、安部が
本作品を通じて何を言いたいのか、
明確には理解できないでいます。

小説の舞台は終戦前後の
旧満州なのでしょう。
十年前から逃走の日々を
過ごしている「私」が馬賊に捕えられ、
陳という男の監視下に置かれます。
肺結核に苦しむ「私」は、
陳から勧められた阿片を吸いながら
束の間の安寧を見つけるのですが、
やがて死を受け入れます。
粗筋はそれだけで、
事件が起きて大きな展開が
あるわけではありません。
その間に「私」が語る
「故郷」のモノローグこそ、
この作品の肝なのでしょう。

安部の作品の多くに
共通してみられるテーマは
「喪失」だと考えます。
「他人の顔」では「顔」を失い、
「砂の女」では「戸籍」を失い、
「闖入者」では生活基盤
(収入と住居)を失います。
そしてそれは
自己のアイデンティティーの喪失に
繋がっていくのです。

本作品も基本的には「喪失」です。
本作品においては
「故郷」を喪失したことになっています。
しかしそれは他の作品のように
他から奪われたものでもなく、
偶然の運命でそうなったのでもなく、
自ら「故郷」と決別したのですから
意味合いが異なります。

また、「故郷」を失うことによって
他の力(戦争と考えられる)から
自己を奪われることを
押しとどめているのです。
自己を征服されるのを防ぎ、
「私」は自己を自らの手で
「占有」しようとするのです。
それはアイデンティティーの喪失とは
正反対の性質のものであるはずです。

それでいながら
全編に閉塞感が漂います。
「私」は阿片を受け入れ、
ありもしない秘密を
他者に明け渡すとともに、
安楽な「死」へと向かいます。
脱出の機会を得ながら、
それも頑なに拒み通します。
「自己」を「占有」するための
「私」の行為は、
出口のない迷路の彷徨に似ています。

わからないことずくめなのですが、
時間をおいて
再読してみたいと思います。

(2019.7.25)

Marion WunderによるPixabayからの画像

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