「白痴」(坂口安吾)②

そして伊沢の感情はさらなる落下を続けます

「白痴」(坂口安吾)
(「白痴」)新潮文庫

前回本作品を取り上げ、
主人公・伊沢の感情分析を試み、
①~⑤まで列記しました。
特に⑤は本作品の
クライマックスであり、
感情の高ぶりが
見事なまでに描出されています。

「女の身体を自分の胸にだきしめて、
 ささやいた。
 女はごくんと頷いた。
 その頷きは稚拙であったが、
 伊沢は感動のために
 狂いそうになるのであった。
 ああ、
 長い長い幾たびかの恐怖の時間、
 夜昼の爆撃の下に於て、
 女が表した始めての意志であり、
 ただ一度の答えであった。
 そのいじらしさに
 伊沢は逆上しそうであった。
 今こそ人間を抱きしめており、
 その抱きしめている人間に、
 無限の誇りをもつのであった。」

白痴の女の純粋無垢な
美しさに惹かれた伊沢の、
これもまた純粋無垢な感情であり、
空襲の最中の緊迫感と相俟って
読み手の心に強く迫ってくる一節です。

本作品はそれで終わっていません。
伊沢の感情分析のその後に、
もう一つ⑥を加えるとすれば
以下のようになるでしょう。

伊沢の感情⑥限りない虚無
爆撃が終わり夜明けが近づいたものの、
心は虚ろです。
伊沢の感情の高ぶりも
すっかり冷め切ります。
「二人の人間だけが残された。
 二人の人間だけが――
 けれども女は矢張りただ一つの
 肉塊にすぎないではないか。」

わずか数ページの間の、
急激なトーンダウンです。

伊沢の感情はどれが本当なのか?
おそらくどれも真実の感情であり、
本来複雑である人間の感情
そのものの表出なのでしょう。
戦争による破壊という
特殊な状況下における
人間的な魂の高揚も真実なら、
その終わりによってもたらされる
精神の堕落もまた真実なのです。

そして伊沢の感情は
さらなる落下を続けます。
「人が物を捨てるには、
 捨てるだけの張合いと
 潔癖ぐらいはあるだろう。
 この女を捨てる張合いも潔癖も
 失われているだけだ。
 微塵の愛情もなかったし、
 未練もなかったが、
 捨てるだけの張合いもなかった。」

この部分が
本作品の肝なのかも知れません。

結びも強烈です。
「今朝は果して空が晴れて、
 俺と俺の隣に並んだ豚の背中に
 太陽の光がそそぐだろうかと
 伊沢は考えていた。」

敗戦の混迷の中にいた日本人に
生きる力を与えたと評される本作品。
隣国のミサイルが
頭上を通過する現代においても
その力はいささかも衰えてはいません。

(2019.11.19)

【青空文庫】
「白痴」(坂口安吾)

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