「赤蛙」(島木健作)

「私」もまた自らを変革しようと試みる人間

「赤蛙」(島木健作)
(「赤蛙」)新潮文庫

桂川に沿って
散歩していた「私」は、
中州に一匹の
赤蛙のいるのを見つけた。
赤蛙はそこから
川に飛び込んだものの、
流れの速さに耐えられず、
浮かび上がってきた。
蛙は何度も何度も試みるものの、
それは失敗に終わる。
蛙は…。

前回取り上げた
島木健作の代表作です。
筋書きは単純です。
川を渡ろうと何度も試みた蛙が、
やがて見えなくなる。
「私」はそこから
何か崇高なものを見いだす、
というものです。

蛙の飛び込む様を
最初に目にしたとき。
「私は目のさめるやうな気持だつた。
 遠道に疲れたその時の
 貧血的な気分ばかりではなく、
 この数日来の
 晴ればれしない気分のなかに、
 新鮮な風穴が通つたやうな感じだつた。」

何度目かの挑戦の後。
「赤蛙はある目的をもつて、
 意志をもつて、敢て困難に
 突入してゐるのだとしか思へない。
 彼にとつて力に余るものに挑み、
 戦つてこれを征服しようと
 してゐるのだとしか思へない。」

蛙の姿が見えなくなったとき。
「力の限り戦つて来、
 最後に運命に
 従順なものの姿があつた。
 さういふものだけが持つ
 静けささへあつた。
 蛙からさへこの感じが来る、
 といふこの事実が私を強く打つた。」

なぜ「私」は蛙の姿から
これほどまでの感銘を受けたのか?
一つは「私」の
病気による衰弱のためでしょう。
「消極性の自分の病気」とありますので、
神経の病と考えられます。
もう一つは、
その静養のために訪れた宿屋で
不遜な態度で扱われ、
人間不信に陥っていたことも
理由なのでしょう。

ここで昨日の「煙」の終末と
照らし合わせてみます。
主人公・耕吉は、
己のこれまでの人生と
決別する行動に出ます。
「耕吉は日記とかノートとか
 いうようなものを
 そこに持ち出して来て、
 次々に破り棄てて行った。
 それは彼の過去の生活のにおいの
 強くするものであった。
 マッチをすって火をつけた。」

耕吉と同様、
「私」もまた自らを変革しようと
試みる人間なのでしょう。
無謀な挑戦の末に
命を落とした蛙から、
「私」はそうした気持を
激しく揺さぶられたのだと考えます。
「今はもう何も苦にはならなかつた。
 私はしばらくでも
 俗悪な社会と人生とを
 忘れることができたのである。」

赤蛙という小動物の
限りない生命の躍動感と
「私」の昇華していく心の姿が
美しい日本語によって
描出された島木健作の代表作、
いかがでしょうか。
残念ながら絶版中であり、
青空文庫からどうぞ。

(2019.12.3)

【青空文庫】
「赤蛙」(島木健作)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA