「接木の台」(和田芳恵)

接ぎ木としての再生を試みた「私」

「接木の台」(和田芳恵)
(「接木の台」)集英社文庫

「接木の台」(和田芳恵)
(「私小説名作選」日本ペンクラブ編)
 集英社文庫

電車の中で十年ぶりに
悠子と再会した「私」。
悠子は当時、
座談会の記録をまとめて
原稿にしていた「私」の
専属の速記者であり、
二人は男女の関係を続けていた。
それは「私」の妻の
知るところとなり、
結局「私」は妻を選んだのだった…。

十年ぶりに会った
不倫相手と話をしているうち、
過去を回想する、という
ただそれだけの筋書きです。
しかし、読み手の心の中に
じわじわと染み込んでくるような奥深さ
(それは人生の悲哀というべきもの)を
持った作品なのです。

単なる不倫小説ではありません。
「私」と悠子は、
親子ほどもある年齢差なのです。
なぜそんな二人が
抜き差しならない関係になったのか?

一つは悠子の事情にあります。
彼女は孤児であり、
父親の顔さえ知りません。
「短大を卒業した」とありますので、
苦労しながら勉学に励み、
速記者として独り立ちしたのでしょう。
そんな彼女にとって、
一人前の速記者とするべく
厳しく指導してくれる「私」は、
単なる仕事のパートナーを越え、
強く支えてくれる存在として
彼女の目に映ったとしても
不思議ではありません。

もう一つは老境にさしかかった
「私」の事情です。
売れない作家だった「私」は、
座談会の仕事を引き受け
糊口を凌いでいたのです。
そうした中で、悠子とコンビを組んで
取り組んだ読み物記事があたります。
文筆家として再起を果たしたいと
願うのは自然なことなのです。

悠子の若さと能力の高さを
自身の経験値に注ぎ込み、
男としても作家としても、
もう一花咲かせたい。
「私」は、悠子を台木、
自らを接穂として共生し、
接ぎ木としての再生を試みたのです。

それでいて、「私」は妻の引力からは
どうしても抜け出せないのです。
「うちの奴は、
 もう、五年もすれば
 女でなくなるから、
 そのあとは木原君にまかせると
 言っているんだ。
 棄てられてもいいと
 決めている人間を、
 私は、どうしても、
 棄てることはできないね」

「奥さんは、やはり、うわ手ね。
 五年は、持たないと
 思っているのよ。
 思いつめたら、あなたが
 わたしものでないとわかったの」

それから十年、急性肺炎を患ってから
息切れがひどくなり、
もはや男性としての機能も失い、
接穂にならない体になった「私」。
一方、三十を超え、仕事も充実し、
自らの力で
確固とした花を咲かせた悠子。
二人を載せた電車は
どこまで走るのやら。
しみじみとした感慨に打たれたまま、
物語は幕を閉じます。

(2020.3.9)

acworksさんによる写真ACからの写真

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