「虚構の春」(太宰治)

「自分探し」の先駆け的実験

「虚構の春」(太宰治)
(「二十世紀旗手」)新潮文庫

近頃、君は妙に
威張るようになったな。
恥かしいと思えよ。
いまさら他の連中なんかと
比較しなさんな。
お池の岩の上の
亀の首みたいなところがあるぞ。
たかだか短篇
二つや三つの註文で、
もう天下の太宰治じゃあ
ちょいと心細い…。

一体、「自分探し」という言葉は
いつごろからできたのでしょうか。
私の世代(ちなみに五十半ばです)には
そのような言葉は
なかったと思いますし、
そのような作業も
しなかったと記憶しています。
でもしっかり大人になり、
自分というものに(ある程度の)
自信を持つこともできています。
「自分」とは探さなければ
出会えないものなの?と、若い人に
投げかけたくなるときがあります
(これも年を取ったから、と
言えなくもないのですが)。

などと考えていましたが、もしかしたら
昭和初期からあったのかも知れないと
思うようになりました。
本作を再読すると、
そんな気がしてきます。

さて、本作品には
紹介できる粗筋などありません。
粗筋代わりに
冒頭に掲げた一節のように、
昭和のある年(おそらく十年)の
十二月に、太宰宛に届いた書簡や葉書を、
時系列に列挙しただけのものなのです。
それがただ延々と、
約100頁(新潮文庫版)続きます。

ここで注目すべきは
太宰を見る他者の視点です。
「妙に威張るようになったな」
「太宰!『許す。』とは、
 なんだ。バカ!」
「醜態です。猛省ねがいます」
「あなたが利巧だとは思わない」
「惰弱になって巧言令色である」

太宰は、知人からの手紙の中で
ぼろくそに言われています。

手紙ですから
やりとりがあったはずですが、
太宰から差し出したものは
一切載せず、
届いたものだけを並べています。
それによって周囲から
「どう見られているか」を綴り、
自己の姿を炙り出すことに
成功しているのです。
これこそまさに「自分探し」の
源流と言えるのではないでしょうか。

しかし、ふと疑問も湧き上がります。
どこまで本当の手紙で、
どこからが作り物なのか?
脈絡のない内容の手紙や
意味のなさそうな手紙が
混じっているところが
現実的でありながら、
同時に作為の匂いも感じられるのです。
あくまでも小説ですから、
太宰特有の巧妙な脚色や創作も
相当数含まれているのでしょう。

いずれにしても、
私小説を多数書いた太宰の、
これが究極の私小説であり、
さらには「自分探し」の
先駆け的実験だと思えるのです。

自分探しをしようとしている
若者の皆さん、
わざわざ高いお金を払って
自分探しの旅に出る必要はありません。
図書館に行って太宰を読みましょう。
あっ、でもあまり若いうちに
太宰に「はまる」と、
ろくなことがないですね。
私もそうでしたから。

(2021.7.10)

Lukas_RychvalskyによるPixabayからの画像
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