「蝗の大旅行」（佐藤春夫） | ラバン船長のブックセイリング | 純粋な空想を張り巡らせるだけで創り上げた童話

純粋な空想を張り巡らせるだけで創り上げた童話

「蝗の大旅行」（佐藤春夫）
（「女誡扇綺譚」）中公文庫

「蝗の大旅行」（佐藤春夫）
（「日本児童文学名作集(下)」）岩波文庫

台湾を旅行中の｢僕｣は、
汽車に乗り込んできた
紳士の麦藁帽子に、
一匹の蝗が留まっているのを
見つける。
蝗は帽子から
紳士の横の座席へと飛躍し、
紳士よりも紳士的に
行儀良く座っていた。
目的地に達した｢僕｣は
蝗に語りかける…。

たったそれだけの話であり、
文庫本にして
わずか6頁だけなのですが、
不思議な余韻の残る作品です。
後半3頁分が、蝗に対する
｢僕｣の観察の記述、というよりも
ほとんど｢空想｣なのですが、
その部分が素晴らしいのです。

｢僕｣は蝗と自分を比べて、空想します。
「もう今まで来ただけだって、
　人間にとっては
　何でもない遠さだが、
　彼にとっては僕が
　東京から台湾へ来たぐらい
　遠い旅であるかも知れない」。
そして自分を蝗に置き換えます。
「僕が東京から台湾へ来たのだって、
　世界を漫遊した人にとっては
　ほんの小旅行に相違ない」。
さらに視点を外へ移します。
「人間よりもっとえらい者があって、
　さまざまなちがった星の世界を
　幾つもまわり歩いて
　きたとしたならば、
　そのえらい者にとっては
　人間の世界漫遊などは、
　たかの知れた
　小旅行にすぎないであろう」。

本作品は1921年、
児童向け雑誌｢童話｣に掲載された
短篇小説です。
突拍子のないSFよりも、
こうした空想の方が
よほどロマンがあります。
子どもたちに対して
このような童話作品を提示した
佐藤の感性が光ります。

「蝗の目には
　人間は見えないかも知れない。
　同様に人間の目には
　人間よりずっと大きなものは
　見えないかも知れない。
　僕らが汽車と
　よんでいるものとても、
　ひょっとすると、
　僕らには気のつかないほど
　大きなえらい者の｢田中君(紳士)の
　麦藁帽子｣かも
　知れたものじゃない」。
サン=テグジュペリが
「本当に大切なものは目に見えない」
と書いたのが1943年。
それよりも20年以上早い日本で、
佐藤はそれに類することを
記していたのです。

おそらく佐藤は実際に台湾旅行をし、
その車中で蝗を見かけたのでしょう。
そこから不思議物語を
展開するのではなく、
純粋な空想を張り巡らせるだけで
これだけの童話を創り上げたのです。
浪漫主義作家の旗手である
佐藤春夫らしい独特の童話世界です。

さて、
汽車を降りようとしている｢僕｣は、
蝗になんと語りかけたか？
「やあ！蝗君、
　大へんな大旅行じゃありませんか」。
実に素敵な語りかけです。

決して古びた作品ではありません。
このような作品こそ、
国語の教科書に載せて
中学生に味わわせたいものです。

※近年忘れられつつある
　佐藤春夫ですが、
　昨年は本書｢女誡扇綺譚｣が、
　さらに今年は｢星/南方紀行｣が、
　中公文庫から刊行されています。
　前者は｢台湾小説集｣、
　後者は｢中国見聞録｣という
　副題を与えられ、
　これまで各社から
　出版されているものとは
　異なる視点から編まれています。
　近年、中公文庫はこうした
　忘れられつつある作家の作品集を
　再編集の上で刊行していて、
　好感が持てます。
　中公文庫から目が離せません。

※なお、昭和50年代に
　ほるぷ出版から復刊した
　大正期の童話集も素敵です。