「日本文学100年の名作第5巻 百万円煎餅」

高度経済成長期は日本の文学復興をも呼び込んだ

「日本文学100年の名作
   第5巻 百万円煎餅」新潮文庫

「毛澤西」(邱永漢)
1950年代の香港。
フェリー・ボートから
降りる客相手の新聞売りたちの
多くは無許可営業であり、
取り締まりの対象となっていた。
警官たちに摘発された中に、
新聞売りらしからぬ大男がいて、
彼は裁判で自らを
「毛澤西」と名乗り…。

「マクナマス氏行状記」(吉田健一)
日本に住み着いている
マクナマス氏は、
自宅に開いた英語塾の生徒から
授業料を取るだけでなく、
洋書を不当な値段で
売りつけたり、
架空の団体への寄付金を
懐に入れたり、
怪しげな金儲けが得意だった。
そして戦争が終わると…。

1954年から1963年の10年間の
名作短篇を集めた本書の、
再読と記事投稿が完了しました。
戦争の傷跡がようやく癒え、
日本文学に再び文化の彩りが
復活した10年でもあったのでしょう。
多くの違った顔を持った作品が
並んでいます。
いくつかのテーマで分けて、
振り返りたいと思います。

一つめは、
邱永漢と吉田健一の作品です。
「毛澤西」と「マクナマス」という
味わいのある人間の生き方が
描かれています。
両者に共通項を見出すとすれば
「自由」でしょうか。
戦後日本の歩みが
凝縮されているともいえる作品です。
なお、作者両氏とも
創作は副業的なものなのでしょう。
邱永漢は経営コンサルタント兼実業家、
吉田健一は英国文学研究者としての
顔の方が知られています。

次の三篇はSFショートショートと
いえるでしょうか。
星新一作品はいうまでもありませんが、
山川方夫の「待っている女」は
SFともいえるしホラーのようでもあり
ミステリとしても成立しています。
「その木戸を通って」は
山本周五郎得意の人情ものですが、
時代ファンタジー的な要素を
持っています。

「おーい でてこーい」(星新一)
台風による土砂崩れで流された
小さな社。
その跡地に出現した
直径約1mの不思議な「穴」は、
測定不能なほど底が深かった。
崩れた社の再建と引き替えに
その「穴」を買い取った利権屋は、
「穴」を
廃棄物処分場にしてしまう。
その後…。

「待っている女」(山川方夫)
冬のある日曜日、「彼」は
妻と些細なことから喧嘩し、
怒った妻は部屋を出て行く。
近所の煙草屋へ
足を運んだ「彼」は、
誰かを待っている
若い女性に気付く。
彼女は日が暮れても
ずっと誰かを待っていた。
「彼」は女に声をかけに行く…。

「その木戸を通って」(山本周五郎)
家老家の娘との
縁談が決まっている平松正四郎。
彼の家にある日突然、
記憶喪失の若い娘
ふさが訪ねてきた。
ふさは誠実であり、
人柄もよく、
正四郎は次第に
彼女に惹かれていく。
ついには縁談を断り、
正四郎はふさと結ばれる…。

三篇に共通しているのは「消える」
そして「再び現れる」と
見ることができます。
「おーい でてこーい」は、
産業廃棄物が穴の中に「消え」、
その後、空から「再び現れる」
ブラックユーモアが魅力です。
「待っている女」は妻が姿を「消し」、
「再び現れる」のですが、
主人公はその間、背筋が寒くなるような
思いを味わいます。
「その木戸を通って」は
妻が突然「消え」、
しかし「再び帰ってくる」ことを
祈りながら幕を閉じます。

次は時代物・歴史物の二篇です。
「山本孫三郎」は仇討ちを描いた作品、
「補陀洛渡海記」は史実に創作を加えて
完成させた作品です。

「山本孫三郎」(長谷川伸)
金沢藩士・山本孫三郎は、
金貸し雲田忠太夫の
無礼な態度に腹を据えかね、
斬り捨てる。
孫三郎は作法に則って
事故処理を行ったため
無罪となる。
忠太夫の二人の子・
忠之丞・忠太郎は、
仇討ちの許しの下りないまま、
孫三郎を狙う…。

「補陀洛渡海記」(井上靖)
熊野浜ノ宮海岸補陀落寺の
住職金光坊は気が重かった。
今年は自分が補陀洛渡海の
年にあたるからであった。
補陀洛渡海とは、
僧を脱出不能の
小箱付の小舟に乗せ、
生きたまま海に流すという
捨身行である。
いよいよその日になり…。

次の四篇は
性風俗を題材としたものです。
戦時中には書けなかったような
作品ばかりであり、
これも時代を反映しているといえます。
「洲崎パラダイス」は
東京江東区にあった遊郭街を
舞台にしています。
また三島由紀夫の「百万円煎餅」は、
明確には書かれていないものの
主人公夫婦が行っているのは
いわゆる「白黒ショー」なるものです。

「洲崎パラダイス」(芝木好子)
宿屋の払いを済ませて
外に出ると、二人の懐中には
百円の金も残らなかった。
義治が煙草を買っているひまに、
蔦枝はあてもなく
橋桁まで歩いていった。
二言目には「死ぬ」と言い
「死にゃあいい」と
自棄になっている彼なので、
蔦枝は…。

「百万円煎餅」(三島由紀夫)
健造と清子の夫婦は
堅実な生活を送っている。
ほしいものは月賦ではなく
貯金を貯めて
買うようにしているし、
子どもも計画出産を考えていた。
そんな二人は、
ある日立ち寄った玩具売り場で
「百万円煎餅」を
衝動買いしてしまう…。

さらに「幼児狩り」は
危険な倒錯した性感情を描いています。
描かれているものは決して
気持ちのいいものではありませんが、
強烈なエネルギーを感じる作品です。
「寝台の船」は
男娼との交流が描かれています。

「幼児狩り」(河野多惠子)
晶子は幼い女の子を
激しく嫌う一方、男の子には
異様な執着心を見せる。
今日もまた男子用のブラウスを
衝動買いしてしまう。
彼女は夢想の世界に
身を投じる。
7、8歳の男の子が、
30代の男から残酷な折檻を受け、
血を流し始める…。

「寝台の船」(吉行淳之介)
女学校の講師をしていた「私」は、
精根尽き果てかけていた。
「私」は女学校の教師をして、
辛うじて生計を立てていた。
ある夜、
街で酒を飲んでいた「私」は、
和服の女に声を掛けられ、
彼女の部屋で一夜を共にする。
しかし彼女は朝…。

次の二篇「霊柩車」「贅沢貧乏」は、
ともに私小説といえる作品です。
作者はそれぞれ自らの体験や生活を
開陳しながらも、
人の生き方を鋭く追究しています。

「霊柩車」(瀬戸内寂聴)
夫との離縁が解決してまもなく、
「私」は挨拶の意味をこめて
父を見舞った。
いつものように、
訪れのノックを聞くなり、
す早く戸をあけてくれた父は、
その朝にかぎり、
お決まりの厭味を吐かなかった。
「私」は父の優しいしぐさに…。

「贅沢貧乏」(森茉莉)
牟礼魔利の部屋を
細叙し始めたら、
それは際限のないことである。
牟礼魔利は、自分の
部屋の中のことに関しては、
細心の注意を払っていて、
独り満足の微笑いを
浮かべているのである。
魔利の部屋にある
物象という物象はすべて…。

ここまでのテーマでは括れない三篇を
最後にまとめました。
これらが実に味わい深い
短篇となっています。

「江口の里」(有吉佐和子)
熱心な信者の多い教会を任された
グノー神父。
朝食もまともに摂れない
忙しい日曜日に
辟易していた彼は、
ミサに参加している
和服姿の美しい婦人・
さと子の存在に
心を和ませていた。
しかしさと子が芸者であることが
明らかとなり…。

「突堤にて」(梅崎春生)
太平洋戦争初期の頃、
病気静養中である「僕」は
釣りを始める。
海に突き出た防波堤は
未完成であり、
突堤部以外は
潮が満ちると水没するため、
そこを訪れる釣り客は、
普段は常連ばかりだった。
「僕」は常連たちを
観察しはじめる…。

「水」(佐多稲子)
幾代はそこにしゃがんで
さっきから泣いていた。
彼女がしゃがんでいるのは、
上野駅ホームの
駅員詰所の横だった。
幾代の前には、
客を乗せて時刻を待っている
列車の鋼鉄の側面があった。
詰所との間の狭い場所は
蔭になっていた。…。

短篇とは、単に分量の少ない
小説という意味ではありません。
長編に匹敵しうる物語の
一部分を切り取りながら、
そのすべてを読み手に伝えるという
高度な創作作業の結果なのです。
「江口の里」は
能を現代の舞台に置き換えながら、
凜とした生き様を見せる
二人を描いています。
「突堤にて」は
さりげない出来事を描きながらも
戦後まもなくの日本の有り様を
そこにあぶり出しています。
「水」は
本書中で最高傑作ともいえる作品です。
少女の悲しい人生と戦後日本の縮図が
短い中に濃密に描かれているのです。

「もはや戦後ではない」と、
経済白書の序文にその一節が
書かれたのは1956年でした。
本書に収録された作品群が書かれた
1954年から1963年の10年間は、
戦争の傷跡がようやく癒え、
日本文学に再び文化の彩りが復活した
10年でもあったのでしょう。
高度経済成長期は日本の文学復興をも
呼び込んだかのようです。
傑作揃いの全10巻中、
白眉の一冊です。

(2022.3.10)

PexelsによるPixabayからの画像

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