「霧社」(佐藤春夫)

結果的に最も強烈な告発文となっている

「霧社」(佐藤春夫)(「女誡扇奇譚」)
 中公文庫

霧社の日本人は
蕃人の蜂起のために皆殺しされた
―という噂を初めて耳にしたのは
集々街に於いてである。
宿屋で隣室の客が
話し合っていたのである。
霧社は予の旅程から言って
両三日の後に予が
そこに在るべき土地である。
予は…。

「皆殺し」という穏やかならざる言葉が
唐突に現れましたが、
佐藤春夫「霧社」の
冒頭部分を抜き書きしました。
台湾と日本の関係に詳しい方であれば、
これは「霧社事件」のことだと
思うに違いありません。
日本統治下の台湾において、
その支配に抵抗し
蕃人(台湾高地地方の原住民)が蜂起、
日本人132名が殺害され、
首を切断されるという
鳥肌の立つような事件、
それが「霧社事件」です。

ところが本作品は「霧社事件」の
報道記事などではありません。
なぜなら「事件」の発生は1930年、
本作品の発表はその5年前の1925年、
佐藤春夫がその取材のために
台湾を訪問したのは
さらにその5年前の1920年なのです。
本作品は紀行文のようでもあり、
ルポルタージュのようでもありますが、
事実を下敷きとした私小説です。

佐藤が訪れた段階で、小さな
(とは言えないかもしれませんが)
衝突は存在していたようです。
作品中には日本人7名が
蕃人に殺害され、やはり首を
取られたことが記されています。
それに対して佐藤は
極めて冷静な判断をしています。

一つは統治者である日本人の
横暴な振る舞いについて
例を挙げて記録しています。
この地に配属された巡査が
現地民の女性を妻にしたのですが、
内地へ帰還する折には
妻子を捨てていくことがあったこと、
軍の力を持って蕃地を制圧し、
同化政策をとったのですが、
それでは現地民の心を
掴めなかったであろうこと、
そうしたことの積み重なりが
蕃人を抑圧し、
不満が鬱積していること等が続きます。
日本人(というよりも
統治者に立った国)の傲慢さを
鋭く指摘しているのです。

そして一つは
日本が持ち込んだ「経済」が、
現地の文化や人心を破壊している
ことについても記述しています。
未成年の女児から
売春を持ちかけられたこと、
賃金ほしさに幼い子どもまでが
内地人に対して
労働を提供していること等、
金を基準とした価値観が、
内地人と現地民との関係を
さらに複雑にしていることが
うかがえます。

さらにもう一つは、残虐な行為も
その民族の文化であることに触れ、
蕃人に理解を示しています。
「蕃人の人を殺すやその目的は
 決して殺人そのものに
 あるのではなく、ただ彼等は
 一種の宗教的迷信のために
 首を得たいのみであって、
 もし仮に首さええられるならば
 命は残して行く位なものである」

ここには佐藤が見た、
文明と文明の衝突の予兆が
しっかりと記されているのです。
「霧社事件」を予見したかのような
佐藤の「霧社」。
おそらくそこに秘められた問題提起には
当時の誰一人として気づかぬまま、
実際の「霧社事件」を
引き起こしてしまったのでしょう。

現代の私たちが本作品から
学ぶべきことは多いと思われます。
異なる民族間の争いの
悲惨さばかりが強調され
(それはそれで大切なのですが)、
「なぜ紛争が起こるのか」という
メカニズムについては
目が背けられがちです。
他民族との衝突を
起こさないようにするには、
心情面から迫るのではなく、
もっとシステマティックな側面から
考えていくべきだと感じます。

淡々とした筆致であり、
表面的には問題提起をしているようには
見えないかもしれません。
「霧社事件」の予備知識がないと、
単なる紀行文・ルポルタージュとしか
とらえられない恐れもあります。
しかし本作品は台湾統治における
日本の間違った在り方を
正確に記すことにより、
結果的に最も強烈な
告発文となっているのです。
ミステリも書ける、SFも書ける、
童話も書ける、
それだけでなくこのような作品も
残しているのですから、
やはり佐藤は超一流の作家です。

「女誡扇綺譚 佐藤春夫台湾小説集」
 収録作品一覧

女誡扇綺譚
鷹爪花
蝗の大旅行
旅びと
霧社
殖民地の旅
魔鳥
奇談
かの一夏の記

(2022.4.6)

Ke HugoによるPixabayからの画像

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