「或る調書の一節」(谷崎潤一郎)

分からないなりに咀嚼するのが本作品の味わい方

「或る調書の一節」(谷崎潤一郎)
(「潤一郎ラビリンスⅧ」)中公文庫

「潤一郎ラビリンスⅧ」中公文庫

警察の取調官(A)が
殺人を犯した男(B)を
取り調べる。
男はこれまで窃盗や強盗など
多くの前科があり、今また
情婦殺害容疑で勾留されていた。
男は答える。私は一生
悪い事は止められません。
悪い事をする方が
どうも面白いのです…。

谷崎潤一郎の短篇作品ですが、
以前取り上げた「憎念」
趣が似ている作品です。
悪事を働き、
それが悪いことと分かっていても
止められない主人公です。いや、
「憎念」は単に自分の店の使用人を
いじめただけですが、
こちらは殺人ですから、
その重みはまったく異なります。
そして何をどう受け止めるべきか、
なかなかその主題が見えてきません。
分からないなりに咀嚼するのが、
本作品の味わい方なのかも知れません。

【主要登場人物】
(A)
…取調官。
 殺人犯(B)の取り調べを行う。
(B)
…土工の頭領。殺人犯。
 女性二人を殺害し、逮捕される。
※以下、会話の中に現れる人物
菊栄
…(B)の情婦。
 浮気したために(B)に殺害される。
お杉
…(B)の情婦。
 何人かいた情婦の中でもっとも
 (B)が愛おしく思っている。
三河屋の娘…(B)に殺害された娘。
女房E…(B)の妻。

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本作品の味わいどころ①
ミステリとしての味わい

(B)は不思議な犯罪者です。
土工の頭領として
それなりの稼ぎがあるにもかかわらず、
金のために窃盗や強盗を
繰り返しているのです。
本人も自供しているように、
(B)は「悪い事はしたい」のですから、
根っからの犯罪者であると同時に、
異常心理であるとも考えられます。
その犯罪者心理を
読み解こうとするのが、
本作品の一つめの
味わい方と考えられます。

ところが、犯している犯罪自体は、
その場の衝動で起こした
短絡的なものであり、
殺害しなければならないような動機は
ほとんどなく、ミステリとしては
成立しにくいと思われる作品なのです。
「犯罪小説集」というテーマで編まれた
短篇集に収録されてはいるのですが、
その「心理」以外には
味わいどころは乏しいと
言わざるを得ません。

本作品の味わいどころ②
サドマゾ小説としての味わい

だとすると別の側面が見えてきます。
殺人自体は付録に過ぎず、
味わうべきは(B)とその「女房」の
関係性となります。
お杉に比べて
「女房」は可愛くないけれども、
泣かせると別の「可愛さ」が現れる、
だから泣かせる。
サディスト(B)とマゾヒスト「女房」の、
どろどろとした関係の異様性こそ、
二つめの味わい方ではないかと
推察できます。

この点についても、
やはり疑念が生じます。
谷崎の得意形態はマゾ。
男がマゾヒストとして
女の残虐性に喜んで耐える
筋書きであれば、
「春琴抄」「痴人の愛」など
いくつも見られるのです。
そう考えると、
サディスティックな男が主人公である
本作品は、どこか谷崎らしさに
欠けているような気がします
(悪びれずに悪事を行う男は
谷崎らしいところですが)。

本作品の味わいどころ③
「罪」の本質を問う

純文学としての味わい
そうなるとこの(B)の、
「女房」を泣かせたときにだけ、
自分の犯した罪の意識を感じるという、
一般の人間とは異なる(B)の
「罪の意識」の在り方こそ、
味わうべき「主題」ということになる
可能性があります。
悪いことだという判断はある、
しかし普段はそこに
罪の意識を感じていない、
「女房」を泣かせたときに
初めて「罪の意識」が芽生えてくる、
それは「改心」とは異なるものである。
何とも複雑な「罪の意識」です。

単純に考えると、
(B)の「罪の意識」は、自身の心が
すっきりするからというものであり、
自身の心の救済のためのものであり、
その気持ちは他者へは向いていません。
「罪の意識」など
そのようなものだという
谷崎の心理分析なのでしょうか。

同時に、
「女房」をいたぶって初めて生じる
「罪の意識」であれば、
それは自身の心に生じたものではなく、
「女房」の存在の中に
芽生えたものと考えることができます。
内部にある「罪の意識」ではなく、
自身の心の外にある
「罪の意識」だとすると、
果たして「罪の意識」とは
いったい何なのかという
新たな課題も見えてきます。
そうした人間の心理の真相を暴いた
純文学という味わい方が
可能となってくるのです。

ミステリなのか、
サドマゾ小説なのか、
「罪」を問うた純文学なのか、
あるいはそのいずれでもないのか?
もしかしたら谷崎は
そんな複雑なことを考えずに
この作品を著した可能性すらあります。
いずれにしても
一筋縄ではいかない谷崎です。
多角的に斬り込んでいかなくては
真の味わいは見えてこないのでしょう。
ぜひご一読を。

〔関連記事〕

※青空文庫には
 まだ登場していないのですが、
 YouTubeに
 素敵な朗読動画がありました。

【朗読】或る調書の一節 谷崎潤一郎【日本文学】

〔本書収録作品一覧〕
前科者
柳湯の事件
呪はれた戯曲
途上

或る調書の一節―対話
或る罪の動機

(2023.2.16)

Hanjörg ScherzerによるPixabayからの画像

【関連記事:谷崎潤一郎作品】

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