「鮫人」(谷崎潤一郎)

完成していれば傑作長篇サスペンス小説となった…

「鮫人」(谷崎潤一郎)
(「潤一郎ラビリンスⅨ」)中公文庫

「潤一郎ラビリンスⅨ」中公文庫

服部に惚れられたと
目されて居る女優は、
此の劇団のソプラノ唄いの
林真珠と云う
少女だったのである。
彼女は斯う云う社会には珍しい
無邪気な情深い処女であったし、
それに、此の一座では
割に優待されて
懐都合も好かったので、…。

谷崎潤一郎
あまり知られていない一篇です。
潤一郎ラビリンス第9巻に
収録されているのですが、
その構成は本作品と短編一編、
随筆一篇であり、
本作品で頁数の8割以上を占める、
中長篇小説ともいえる内容なのです。

〔主要登場人物〕
服部
…画家。劇団「ルネッサンス協会」の
 舞台背景を描くとともに、劇団員から
 金を恵んでもらって暮らしている。
 積極的に芸術活動は行っていない。
南貞助…服部の友人の青年画家。
林真珠
…劇団のソプラノ歌手。
 一座の売れっ子看板娘。
梧桐寛治
…劇団座長。背が高く、痩せ型。
梧桐総子…寛治の妻。
黛薫
…劇団若手女優。器量の点では
 真珠を上回るが、人気は今ひとつ。
垂水清六…劇団テノール歌手・男優。
水木金之助…通称・金公。劇団員。
井口昌吉…劇団ピアニスト。
光代…劇団女優。
星野…作曲家。
…上海の実業家。好色家の噂あり。
林瑶娟
…上海の妓女。林真珠という名の
 行方不明の兄を持つ。

いつものように味わいどころを
紹介するのに苦労する作品です。
なぜなら未完成作品だからです。
約250頁を費やしておいて
「前篇終わり」の記述が現れます。
しかも、事件らしい事件も起きず、
谷崎がいったい何を描こうとしていたか
まったくわからない作品なのです。

それでいながら
こうして文庫本に編まれ、
「谷崎潤一郎全集」にも
当然収録されているのですから、
単なる未完成作品ではないことは
確かです。
主要登場人物に続き、
本作品の章立てを記しておきます。

〔本作品の章立て〕
「鮫人(こうじん)」
第一篇 或る藝術家の憧れ
第二篇 公園に住む俳優の群れ
第三篇 林真珠
第四篇 深夜の人々

「第一章」ではなく
「第一篇」となっているのです。
四つがまとまって一つの筋書きを
つくっているのではありません。
それぞれが異なるものを
描写しています。
第一篇では服部なる画家の身のまわりと
自堕落な生き方、
そして南貞助との関わりを、
第二篇では
劇団「ルネッサンス協会」の紹介と、
服部が南を劇団の林真珠に
引き合わせるまでの顛末を、
第三篇では上海で起きた
真珠が関わった
不思議な出来事について、
第四篇では
真夜中に寝床を抜け出して
どこかに姿を消す
真珠の奇怪な行動について、
書かれてあるだけなのです。

上海で知り合った妓女・林瑶娟の
行方不明の兄・林真珠
(中国読み:リンチェンチュウ)と
真珠は同一人物なのか?
性別は異なるものの、
チェンチュウは女性らしい
華奢な体つきで面影はそっくり。
漢字表記が同じであるのは
偶然の一致かそれとも?

その真珠は、
第四篇でも不可解な行動を起こします。
座長である梧桐夫妻の家に
薫とともに住んでいるのですが、
夫人・薫・真珠の三人一緒の寝室から、
夜中に抜け出し、
朝には寝床に戻っているという
謎の行動を起こすのです。
別室で寝ている座長が気づくのですが、
彼は密かに真珠を狙っているのです。
夫人はそれを
阻止しようとしているのですが、
真珠の行動は
夫人も承知の上のことなのかそれとも?

読み終えると
真珠が筋書きの中心にいるのですが、
第一篇の書かれ方からすると
主人公は服部であるはずです。
ところが彼は第二篇以降、
存在感が次第に薄れていきます。
また、第四篇までは
ほとんど蚊帳の外だった林貞助ですが、
彼は上海で二度、
真珠を目撃しているのです。
彼ら二人は一体、
このあとどういう役割を演じるのか?

というように、
書かれざる「後篇」を想像するのも
一つの楽しみなのですが、
作品そのものを愉しむとすれば、
以下の点が挙げられます。
①服部および梧桐寛治に対する
 谷崎の執拗なまでの人物描写
②浅草公園周辺の描写と
 そこに現れる
 谷崎の「浅草観」と「芸術観」
この点については、
しばらく時間をおいて再読し、
いつか記してみたいと思います。

さて、本作品が書かれたのは大正9年。
「中央公論」に掲載されながらも、
途中二度ほど中断、
結局未完のまま放置されました。
実は谷崎、このとき千代夫人をめぐる
作家・佐藤春夫との確執が
表面化するとともに、
活動写真製作への傾倒などがあり、
創作活動に集中できないような状況が
続いていたのです。
結果として、本作品の執筆に
意欲を失ってしまったのでしょう。
完成していれば、
ミステリ作家顔負けの
傑作長篇サスペンス小説となった
可能性があります。
いやいや、そんな「たられば」を考えず、
残された本作品を
十分に堪能しましょう。

〔「潤一郎ラビリンスⅨ」〕
襤褸の光
鮫人
浅草公園

※三篇合わせて読むと、
 それぞれの作品世界を
 よりよく理解できます。

(2023.4.20)

four_symbolsによるPixabayからの画像

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