「とわの庭」(小川糸)

私たちの心をも明るく照らしはじめる

「とわの庭」(小川糸)新潮文庫

「とわの庭」新潮文庫

裸足のまま勝手口の前に立つ。
チェーンを外し、
ゆっくりとドアノブを左に回して
扉を開ける。
大丈夫。
きっとこれからも、大丈夫だ。
わたしはゴミの要塞を
かき分けながら、
とわの庭を横切って外へ出る。
いっぽ。にほ。さんぽ。…。

素敵な小説に出会うことができました。
冒頭からしばらくは、
母と盲目の娘が
互いにいたわり合い愛し合う様子が
描かれているのですが、
途中から暗雲が漂いはじめます。
暗雲は次第に広がっていくのですが、
読むのがつらくなった中盤から、
明るい光に満ちた世界が
広がってくるのです。
上に記した一節は、
運命の変わり目で主人公「わたし」が、
力強く第一歩を踏み出した、
その瞬間です。

〔主要登場人物〕
「わたし」(とわ・田中十和子)

…語り手。盲目の少女。
 母子家庭だったが、母親が失踪、
 一人で生き抜く。
「母さん」(あい)
…「わたし」の母親。行方不明となる。
オットさん
…「わたし」の家に週一回、
 食べ物などを届けてくれる男性。
スズちゃん(みすず)
…児童介護施設職員。
 「わたし」の世話をしてくれた女性。
マリさん(シミズマリ)
…「わたし」の家の近所に住む女性。
 「わたし」と友だちになる。
リヒト
…ボランティアの男性。
 「わたし」と交際する。
ジョイ…盲導犬。

本作品の味わいどころ①
孤独を一人で生き抜いた「わたし」

母親と一日中
二人で仲睦まじく暮らす生活に
変化が出てきたあたりから、
不幸の匂いが漂いはじめます。
夜の仕事に出ていく母。
不機嫌になる母。
虐待と思われる場面も現れ始めます。
そしてついに母親は失踪。
生活は破綻します。

しかしそこからなお生き抜く
「わたし」の姿が描かれていきます。
オットさんなる人物から届く
食料をもとに、
それ以外は外界との接触のないまま、
なんと五年間もの長い時間、
一人で生き抜くのです。
読み続けるのが辛くなるのですが、
人間の命のたくましさを
感じる場面であり、
それこそが本作品の
第一の味わいどころといえます。

本作品の味わいどころ②
新しい世界に踏み出した「わたし」

ついに意を決して
外界へと踏み出した「わたし」は、
児童介護施設にいったん保護されます。
保護されたときの年齢を考えると、
それ以降の新しい生活に
すんなり入ることは
相当に難しいのでしょうが、
「わたし」は一つ一つ乗り越えようと
努力します。
不幸から逃れ、幸せに近づきはじめた
「わたし」の人生の再出発、
それこそが本作品の第二の
味わいどころとなっているのです。

本作品の味わいどころ③
人生を前向きに謳歌する「わたし」

盲導犬ジョイとの出会いにより、
ついに「わたし」は一人で生活することが
できるようになります。
かつて自身が住んでいた
家に戻ることができたのです。
しかし、盲目であること、
恐らくは生活保護を受けていること、
精神安定剤が欠かせないこと、
頼れる肉親がいないこと等々、
その生活が困難を極めるのは
間違いないはずです。
それでも「わたし」は
生きることに喜びを感じ、
日々の生活を謳歌しているのです。
その前向きな意志と姿勢は、
読み手である私たちの心をも
明るく照らしはじめるのです。
それこそが本作品の
最大の味わいどころなのです。

描かれている状況を現実世界に
置き換えて再現しようとすると、
不自然に感じる部分は
いくつもみえてきます。
数年間ゴミ屋敷状態の家に、
行政や地域社会が
まったく関心を払っていないこと、
オットさんなる人物もまた
そうした状況にに気づかず
物資を支援しつづけていたこと、
敷地内でボヤ騒ぎが
あったにもかかわらず
家屋内の状況に
関心が持たれなかったこと、
数年間料金滞納であるはずなのに
水道などが止められてはいないことなど
現実的には有り得ないでしょう。
しかしそれを瑕として感じさせないほど
本作品から押し寄せてくる感動は
圧倒的です。

生きていることは
それだけで素晴らしいのだと、
改めて感じさせてくれる一冊です。
ぜひご賞味ください。

(2024.4.8)

〔作者・小川糸について〕
本作品の作者・小川糸は、
不思議な経歴をたどった作家です。
2004年に浜田省吾・水谷公生とともに
音楽制作ユニット「Fairlife」を結成、
「春嵐」のペンネームで
作詞家としてスタートします。
雑誌等への応募など
小説を書き続けるものの、
創作活動開始から十年以上、
作品が世に出ることのないままでした。
2008年の「食堂かたつむり」がヒットし、
以来作品が広く
注目されるようになりました。

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