「最後の授業」(ドーデ)

母国語を失うということが意味するもの

「最後の授業」(ドーデ/滝田文彦訳)
(「集英社ギャラリー世界の文学7」)集英社

学校嫌いの少年・フランツは、
その日も学校に遅刻する。
普段は厳しいアメル先生が、
その日はなぜか穏やかだった。
そしてその日は
村の老人たちまでが
教室に集まっていた。
先生が話し始めた。
「これが最後の授業です」…。

舞台となっている
アルザス・ロレーヌ地方は、
普仏戦争後、
フランスの敗北により
ドイツに割譲されます。
それによってフランツの通う学校では
フランス語の授業が禁止され、
明日からはドイツ語の授業を
行うことになったのです。

このアルザス・ロレーヌ地方は、
戦争のたびに
フランスとドイツの間で
領有が揺れ動いた地域であり、
実は当時の住民は仏語より
ドイツ語になじみが深かったようです。
にもかかわらず、作者・ドーデ
フランス中央からの目線で
本作品を書き上げ、
ナショナリズムをかき立てたという
側面があります。

そうした作品成立過程の問題に
目をつむり、書かれてある内容を
じっくり読み込んでいくと、
やはり考えてしまうのは
母国語の大切さということでしょう。
アメル先生の言葉が印象的です。
「一つの国民が奴隷となっても、
 その国民が自分の言語を
 持っているかぎりは
 牢獄の鍵を持っているのとおなじ」

たとえ他国に征服されようとも
母国語を維持し続けているかぎり
国は滅びることはない、
ということなのでしょう。

数学者の藤原正彦が著書
「祖国とは国語」の中で述べています。
「ユダヤ民族は
 二千年以上も流浪しながら、
 ヘブライ語を失わなかったから、
 二十世紀になって
 再び建国することができた。」

「それに比べ、
 言語を奪われた民族の運命は、
 琉球やアイヌを見れば明らかである。」
「これ以外に祖国の
 最終的アイデンティティーと
 なるものがない。」

日本は島国であり、
他国の侵略を受けたことがなく、
したがって母国語を
奪われたことがありません
(国内で考えると琉球やアイヌの言語を
駆逐してはいるのですが)。
その一方でかつて朝鮮半島や中国で、
侵略国としてかの国の言語を
奪うという非道を行っています。
また現在は
英語を話せる国民をつくろうと、
日本語もしっかり話せないような
小学校低学年から英語授業を
実施しようとしている不思議な国です。
「母国語」にこれだけ関心の薄い国は
他にないのではないでしょうか。

母国語を失うということが
何を意味するのか、
考える機会とするべき
作品だと思います。

(2018.11.5)

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