「クリスマス・キャロル」(ディケンズ)②

訳者が異なると作品がどのように違ってくるか?

「クリスマス・キャロル」
(ディケンズ/中川敏訳)集英社文庫

クリスマスの前夜、
ケチで意地悪な
スクルージ爺さんの前に、
七年前に死んだはずの
共同経営者マーレイの
幽霊が現れた。
そしてスクルージは、
三人の精霊によって
自分の過去・現在・未来の姿を
見せられる…。

本作品について、
私が所有しているのは
池央耿訳(光文社文庫版)です。
読み比べをしようという気は
無かったのですが、
酒井駒子の表紙に惹かれ、
本書・中川敏訳を購入してしまいました。
訳者が異なると作品が
どのように違ってくるか?
筋書は変わりありませんので、
そう大きな違いは
無いに決まっています。
しかし受ける印象は大きく異なります。

第一の精霊の描写を見てみます。

中川敏訳
「それは奇妙な姿の者で、
 子供に似ていた。
 しかし、子供というよりも
 むしろ老人に似ていて、
 なにか自然の媒介を
 通してみたために、
 視野から遠のいていって、
 子供の大きさにまで
 縮みでもしたような具合に見える。
 頸のまわりから
 背中に垂れたその髪は、
 年を重ねて白くなったようだが、
 顔には皺ひとつなくて、
 若々しくつやつやしている。」

池央耿訳
「何とも不思議な姿だった。
 一見、子供のようでありながら、
 立ちこめる妖気を透かして、
 彼方に遠ざかった老人が
 小さく見えているようにも思われる。
 肩から背中へ垂らした髪は
 寄る年波か総白髪だが、
 その顔に皺一つなく、
 肌はほんのりと赤みを帯びている。」

私は原文(英語)を読んだこともなく、
またそれを読んだとしても
意味を理解するだけの
読解力も持っていません。
どちらが正しいかは判断できません。
しかし、読み進めたとき、
池訳の方がすんなりと情景が
頭の中に入ってくるのです。

中川訳はもしかしたら
原文をかなり丁寧に
日本語に置き換えたのかもしれません。
ディケンズは持って回ったような
表現を多用していたせいで、
訳文もまどろっこしいものに
なったのでしょう。
でも、あまりにも
杓子定規的に訳しすぎて、
作品の持っている幻想的な佇まいを
削いでしまっているように
思えるのです。

クリスマスの夜に現れた精霊たちは、
不思議な雰囲気を湛えて
読み手に迫ってこなくてはなりません。
「クリスマス・キャロル」を読むなら
池訳です。

※中川訳は1975年発表、
 池訳は2006年出版ですので、
 訳文の違いは30年の時間経過の
 結果と考えることもできます。

※現在文庫本では
 村岡花子訳(新潮文庫)も現役です。
 こちらは学生時代に
 愛読していたのですが、
 かなり前に処分してしまいました。
 いずれ再購入して
 味わいたいと思います。

※なぜか酒井駒子画の表紙に惹かれ、
 そうした文庫本を収集しています。

(2018.12.24)

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